寛容であれ 寛大であれ
“寛容であれ、寛大であれ”これは僕の個人的な目標です。
僕は落ち込む時は決まって、自分の小ささを目の当たりにした時です。他人を負かしてやろうとか、身勝手な考え方だと気づいた時。情けなさに襲われて、おさまりの効かない症状に陥る。ボクは許すことが苦手です。思いやりに欠けていたり、心が狭いなぁと度々内省する。
歳を重ねるごとに、少しずつでもいいから思い描いている理想像に近づきたい。そのためには自分と向き合うこと、自分が変えることが必要であると、45歳に近づいて、ようやくそんな感情が芽生えてきた。
先ずは、受け止め方を変えようと思う。どうしてあの人は動いてくれないのだろうかと感じたとする。たとえば、なんでアイツは掃除してくれないのか?そう思えば思うほど、その人のことを攻めようとしてしまう。でも、そもそも何故掃除が必要なのかと考えた時、それはお客さんに快適に過ごしてもらいたいだけなんですよね。「やってやっている。」そう思う方が傲慢だったりするわけで。
人に良い影響を与える存在になること。そこを目指すべきだと今更ながらに気づく。
損得勘定だけで動こうとする人も確かにいる。自分のことを優先したい気持ちはわかるけど、それがいつしか自分さえ良ければ他はどうでも良いと思うようになってしまう。他人に手を貸すことが損に感じてしまう。分別のつく大人がそれをするのだから目も当てられません。
ズルいなと感じて、何かの形でいっぱい食わせてやろうと思ってしまう。そんなボクがいます。何とかして正してやろうとしてしまう。これまた相手を変えようてしてしまうわけだ。
そう思っている時点で、自分こそが損得勘定に支配されていることに気がつきます。態度の悪さを指摘しても何も良いことは起きない。むしろ関係を悪化させてしまうだけ。その前に我こそが他人に手を差し伸べられる人になるべきだと悔い改める。
何故そんな人ばかりが目の前に現れるのだろう。それは完全に自分のレベルの低さの表れだと思う。それをクリアできない限り、おそらく繰り返し訪れるのだろう。
次なるステージにステップアップできるように、”寛容であり、寛大な”人間になりたい。
そして、責任を取れる大人でいたい。起きたことに嘆くのではなく、それを引き寄せた自分に原因がある。どうやらそれは間違いないようです。信用を無くすのも、信頼を取り戻すのも、全ては自分次第だということ。
大抵の人にとって、もちろんボクも同じですが、責任は出来るだけ避けたいものです。何で俺が!?と思うこともあるかもしれない。その場での責任逃れは必ずツケが回ってきます。そうですよね?キッチリと責任を果たすこと。そういう大人で在りたい。
こうして自分の想いをブログで発信したり、SNSでコミュニケーションを取ることは、ある意味、思い描く人間像になるための訓練かもしれません。
匿名が許されている、そういう場での振る舞いこそ本性が露わになってしまうからです。しっかりと自分の意見を持っていること、持っているのに言わないのは、ちょっとズルいですよね。何も言わなかったくせに、陰で吹聴するようなものですから。
意見を述べることは責任を持つことと同義だと思う。SNSやブログを活用して人間力を磨いていきたいと思う。
寛容であれ、寛大であれと自らに言い聞かせてみました。
〈了〉