度重なる苦悩を乗り越えて。結束力で必勝を誓う。<マイナビベガルタ仙台レディース 田原のぞみ選手インタビュー>
東日本大震災の影響、そして三度に渡る大怪我。度重なる苦悩を乗り越えて、東北の地で輝き続ける一人のサッカー選手がいる。マイナビベガルタ仙台レディース背番号7番、田原のぞみ選手である。
自身のキャリアをスタートさせた東京電力女子サッカー部マリーゼとの突然の別れ。そのマリーゼの受け皿として、新たに立ち上がったベガルタ仙台レディースでチームメイトとの再会を果たすも、三度目の大怪我で長期離脱を余儀なくされる。
「言葉では言い表せない」と語る田原選手が味わった苦難の道のりは、想像を絶するものがあったに違いない。それでも決して歩みを止めることはない。それどころかさらなる飛躍を成し遂げている。
そして今季から、マイナビベガルタ仙台レディースと共に6年目を迎えた田原選手は、主将として新たな道を歩み始めた。
フォア・ザ・チーム〜好調の鍵はチーム力〜
――今シーズン、リーグ戦10戦目を終えて4位。3位につけているAC長野パルセイロとは勝ち点で並んでいます。チーム状況は、好調と言ってもいいのではないでしょうか。
(田原) そうですね。課題も出てきてはいますが、自分たちのやれることも増えてきていますし、リーグがスタートした頃よりは、だいぶフィットしてきているのかなと思います。
――マイナビベガルタ仙台レディースは、どのようなサッカーを目指しているのでしょうか。
(田原) 以前からカウンターが主体のチームですので、まずはしっかり守備をすること。それからのカウンターという形ですね。
――今シーズンからキャプテンとしてチームを牽引する立場になられたわけですが、心境の変化、あるいは、自身のプレーに変化はあったでしょうか。
(田原) あまり変わりませんね。監督からも背負わずに普段通りにやってくれればいいと言われていますし、私自身はとにかく走りきること。最後まで諦めずにチームのために走ることを一番に置いています。チームメイトも皆、頑張れる選手ですので、ここ一番で勝ちきれる。そういった強さが結果に結びついているのだと思います。
――田原選手から見て、マイナビベガルタ仙台レディースのチームカラーを、どのような言葉で表せますか。
(田原) うちの長所はチームワークです。試合に出ている11人だけではなく、サブメンバー、チームスタッフも含めて、チーム全員で戦う姿勢ですね。ピッチに出ている11人は、出られない選手のためにも、責任と覚悟を持って戦わなければいけない。ピッチに立てば、自分ができることを100%やる。全員がチームのために戦うことでチーム力が培われているのだと思います。
震災から立ち上がらせた〜絆〜
――サッカー選手、田原のぞみさんのキャリアは、マリーゼ(東京電力女子サッカー部)から始まり、マリーゼの存亡が大きなターニングポイントになったのではないかと想像します。震災の影響に揺れた当時の様子をお聞かせください。
(田原) 地震が発生した時、私たちチームは宮崎で合宿中でした。地震の状況は、現地からの連絡やテレビから伝わっていました。その中で、私たちにできることはサッカーしかないと思っていたのですが、結局、合宿の中断が決まり、自宅待機することになりました。
その後、福島第一原発の事故の影響もあり、マリーゼの休部が伝えられました。その時はまだ自宅待機中でしたが、今後どうなるかわからないという不安と、このままサッカーを続けていいのだろうかという葛藤もかなりありましたが、このままサッカーを辞めたくないという気持ちがあって、私は浦和レッズレディースのレンタル移籍を決断しました。
――サッカーを続けたいという強い気持ちと、他チームの受け入れ態勢が、田原選手のサッカー人生を支えてくれたわけですね。
(田原) そうですね。サッカーを続けるという選択肢が危うい中で、浦和レッズレディースが受け入れてくださったことに感謝しています。途中からですけど、少しでもチームの力になりたいと強く誓いました。
――その後、ベガルタ仙台がマリーゼの受け皿となり、ベガルタ仙台レディースとして再出発しました。その時はどんな想いを持ってチーム復帰を決断したのでしょうか。
(田原) チームが移管されることを知ったのは、当時、マリーゼのコーチだった正木裕史さんからの連絡でした。正木さんは、マリーゼの選手全員に声を掛けてくださいました。「できるなら一緒に、もう1回やりたい。」その言葉に心動かされました。悔いの残る別れ方でしたし、マリーゼは本当にチームワークが良く、チームワークで勝ってきたチームでした。一言で表すなら、“絆”がありました。深い絆で結ばれていたチームでしたので、もう一度みんなでやりたいという気持ちが強かったですね。
でも、こういう形で浦和レッズレディースにお世話になることになり、シーズン途中で、私は怪我をしてしまったので、ほんの2カ月程度しかプレーできませんでしたが、それにもかかわらず、本当に良くしていただきました。シーズン後も、まだリハビリ中でしたが、その状態でも、もしまた来年も、レッズでやりたい気持ちがあるのであれば残ってもいいよと言ってもらえたので、すごく悩みました。せっかくレンタル移籍したのに、何も返せていない。その一方で、またマリーゼのみんなとサッカーができるチャンスが目の前にある。葛藤はありましたが、私はベガルタ仙台レディースを選びました。
度重なる苦悩を乗り越えて。
――かつての仲間との再会を果たし、ベガルタ仙台レディースの一員としてスタートするはずだった2012年シーズンを目前にして、前十字靭帯断裂という大怪我により、長期離脱を余儀なくされましたが、度重なる怪我による苦悩を田原選手はどう受け止めていますか。
(田原) その時で3回目でした。さすがにもう辞めようと思いました。1回目2回目と同じ様なリハビリを2回もやっていたので、3回目にまたこのリハビリをやるのかと思うと結構辛かったですね。リハビリは自分との戦いなので、辛抱強くやらないといけないのですが、サッカーが個人競技ではなく、団体競技で本当に良かったなと思っています。リハビリは地味だし、精神的にもキツイですが、チームメイトは皆、試合のために日々練習している。その頑張っている姿に励まされていました。
――マリーゼ時代から培ってきたチームワークは、現在のマイナビベガルタ仙台レディースに受け継がれている。そのような実感はありますか。
(田原) そうですね。マリーゼにいた選手は、今はもう少ないですし、やはり、ベガルタというチームはまた別のチームです。ベガルタはベガルタの良いところもありますが、私の個人の土台はやはりマリーゼで築かれているのかなと思います。
――マイナビベガルタ仙台レディースの応援に、多くのファン・サポーターの方々がスタンドに駆けつけていますが、その中には、マリーゼ時代から応援して下さるサポーターもいらっしゃるのでしょうか。
(田原) 仙台の方がほとんどですけど、マリーゼのときから応援していますと言ってくださる人も結構います。ベガルタ仙台にはトップチームもありますし、トップチームをきっかけに、レディースの応援に駆けつけて下さる人もかなりいらっしゃいます。トップチームの試合が土曜日にあり、レディースの試合が日曜日あると、両方観に行くという有り難い声も多く耳にしますね。
仙台の人たちは本当に温かい人たちが多いです。最初はサッカーにそんなに興味がなかったという人でも、東北のチームだから応援しようと言ってくれます。高校では、常盤木学園や聖和学園など強いチームがありますが、東北を拠点とする、なでしこのチームは、YKK(YKK東北女子サッカー部フラッパーズ:1997〜2004年)からマリーゼ(2004〜2011年)も無くなってしまいましたが、YKK時代から引き続きベガルタを応援してくれる人がたくさんいます。
――サポーターの大声援はチームを後押ししてくれますね。
(田原) そうですね。やはりサポーターの応援は、選手にとって、チームにとって力になってくれます。ホームではもちろんですが、アウェーにも、多くの人たちが足を運んでくれます。サポーターの応援はしっかり選手に届いています。特に、ホームスタジアムのユアスタ(ユアテックスタジアム仙台)は、声援が大きく反響するので、その声のおかげで、苦しい時でも、あと一歩二歩足が出る、しっかりとブロックできる。勝手に体が動きますね。
これからも観に来てくださる人たちが、少しでも増えればいいなと思いますし、選手としてできることは、試合に勝ち続けること。お客さんも「今日も負けちゃった。」となるよりも、「今日も勝って良かった。次も頑張って応援しに行こうか。」という風になって欲しいし、そのためにも、やはり勝つことですね。簡単な試合はないですし、すごく難しいことですけども、勝ち切るところをもっと突き詰めていきたい。
うちのチームは、ずば抜けたスーパースターがいるわけではありませんが、全員で守備して全員で攻撃することが一番ですので、そういう頑張っている姿を観て、応援したくなると言ってくださる方もいるので、そこは絶対やり続けないといけないですし、たとえ、引き分けでも、負けてしまっても、応援して良かったと思ってもらえるようなプレーを続けていきたいですね。
――本日はお忙しい中、ありがとうございました。
田原のぞみ(たはら のぞみ) |
1988年4月9日生まれ
出身地:兵庫県 所属:マイナビベガルタ仙台レディース ポジション/MF 背番号/7番 経歴:西淡FC→神戸FC→INAC神戸レオネッサ→日ノ本学園高→東京電力女子サッカー部マリーゼ→浦和レッズレディース→ベガルタ仙台レディース(2012年加入) |
【取材後記】
仙台市内の中心部から程よい距離にある泉パークタウン。高級感漂う敷地内にベガルタ仙台のクラブハウスがある。クラブハウスは男女それぞれが別棟にあり専用グラウンドが隣接している。この申し分ない環境にJリーグクラブの風格を感じる。
そして、仙台駅とクラブハウスの中間地点にベガルタ仙台の本拠地『ユアテックスタジアム仙台』がある。陸上トラックのない、19000人を収容するサッカー専用スタジアムから湧き上がる熱狂が、地域の方々の心を掴みベガルタ愛を育んでいく。
この理想的なJリーグタウンを目の当たりにして、地に足をつけて歩んできた関係者の貢献度の大きさを実感するとともに、あの曲が頭の中で流れてくる。ジョン・デンバーの名曲『カントリーロード』だ。
東日本大震災から復興を描いたドキュメンタリー映画『VEGALTA~サッカー、震災、そして希望』サッカーの母国イギリスで制作され、昨年の春に完成。横浜フットボール映画祭でも上映されたこの作品を観て、鳥肌が立った。
被災地に包み込む、地域愛、そして、クラブ愛を通して、故郷を取り戻すために共闘したクラブとサポーターの勇姿を映し出したドキュメンタリー。サッカー愛溢れる様々な人たちの尽力があり、震災後、ようやく公式戦の再開にこぎつけた。
再開後、初のホーム公式戦。ユアテックスタジアム仙台に詰め掛けたサポーターが手を取り合い、その手を空に突き上げ、声高らかに歌い上げたその曲が、故郷を想う楽曲『カントリーロード』だった。
この街にはサッカー愛が溢れている。地域愛とクラブ愛が織り成すこのサッカー愛は、着実に紡がれ歴史を作っていくに違いない。関係者のお話に耳を傾けながら、そんなことを考えていた。
〈了〉
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