サッカー馬鹿

2017.6.27

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サッカー王国が生んだ“なでしこレジェンド”S級ライセンス保持者が託す女子サッカー界の未来<常葉大学付属橘高校女子サッカー部 半田悦子監督インタビュー&取材後記>

サッカー王国が生んだ“なでしこレジェンド”S級ライセンス保持者が託す女子サッカー界の未来<常葉大学付属橘高校女子サッカー部 半田悦子監督インタビュー>

女性指導者における、日本サッカー協会が公認する最高位の指導資格、S級ライセンス取得者は、現時点で6名にとどまっている。本田美登里さん(AC長野パルセイロレディース監督)高倉麻子さん(なでしこジャパン監督)野田朱美さん(伊賀フットボールクラブくノ一監督)岡本三代さん(U-19日本女子代表コーチ/セレッソ大阪堺ガールズコーチ)種田佳織さん(伊賀フットボールクラブくノ一コーチ)そして、半田悦子さん(常葉大学付属橘高校女子サッカー部監督)の6名である。

黎明期を駆け抜けぬけた女子サッカー界のレジェンドたちを筆頭に、年々増え続けている女性S級ライセンス取得者だが、彼女たちは指導者という立場においても、草分けとして女子サッカー界に多大なる貢献をしている。

昨年、新生なでしこジャパンの新監督に初の女性監督、高倉麻子さんが就任したというニュースは記憶に新しいところだが、今季、ACL(AFCアジアチャンピオンリーグ)史上初の女性監督が誕生した。男子サッカートップリーグ優勝に導き、アジアの舞台で名乗りを上げたイースタンSC(香港)を率いるチャン・ユエンティン監督である。女子サッカー界にとどまらず男子サッカー界の舞台にまで活躍の場を広げる女性指導者に喝采が贈られた。

ところが、今回のインタビューに登場いただいた半田悦子さんの現在地は、上に並べた華々しいキャリアを歩んでいる女性監督とは一線を画している。トップチームならびに代表監督を率いる資格を持ちながらも、彼女のキャリアは一貫して中高生の育成に注がれているからだ。

静岡生まれ、静岡育ち。今もなお、“サッカー王国”静岡を基盤に活動を続ける、常葉大学付属橘高校女子サッカー部監督、半田悦子の想い、S級ライセンス取得者が語る女子サッカーの未来への展望をお届けする。

“サッカー王国”静岡に生まれて。

――半田監督がサッカーを始めたきっかけを教えてください。

(半田) 私がサッカーを始めたのは、自然の成り行きでしたね。静岡県清水市(現:静岡市清水区)はサッカーが盛んでしたし、活発な女の子でしたから。入江小女子サッカーチームに小学3年生の時に入団しました。

 

――さすがサッカーどころですね!当時から女子サッカーチームがあったのですね。

(半田) はい。清水市内の小学校で対抗戦もやっていました。40年前の話ですけどね。(笑)その時すでに、一つ年上の本田美登里(AC長野パルセイロレディース監督)さんがプレーしていましたね。清水では女子サッカーがあることが普通でしたし、何の違和感もありませんでした。代表に入ってから初めて、周りとは環境が違っていたことに気がつきましたね。

このチームで6年生までサッカーを続けました。その先の中学校では女子チームがありませんでしたし、私は足が速かったので陸上部に入部しましたが、ちょうどその頃、入江小で教えていた監督が清水第八というチームを創設して、本田さんや同級生の木岡二葉たちが、そのチームのメンバーになっていましたが、私はサッカーを離れて、陸上を続けることにしました。その時、またサッカーをやりたいという気持ちはあったので、3年の夏に部活を引退して、サッカーに復帰したら、2年目の全日本選手権で優勝しました。それをきっかけに日本代表に選ばれたことで、高一で陸上を辞めてサッカー一本に絞ることにしました。

 

――高校1年生の時に、女子サッカー日本代表が結成されて、最初の代表選手になったということですね。その後しばらくして1989年にLリーグ(日本女子サッカーリーグ)が開幕しました。

(半田) Lリーグが立ち上がろうとしていた頃、私は、引き続き、清水第8にお世話になっていたのですが、小学生から24歳まで、同じ監督に教わっていたので、そろそろ色々な経験を積みたいということで、清水FCに移籍しました。そうしたら、そのチームがLリーグに出ることになり、1年目は清水FCという名前で、2年目から鈴与清水FCとなって、メインスポンサーの鈴与さんに就職させていただくことになりました。

鈴与さんには本当にお世話になりました。環境が抜群に良かったですね。代表に選ばれて、遠征に出る時、他県の選手たちは、その間のお給料を差し引かれてしまったり、苦労が多かったそうですが、鈴与さんは、サッカーに対して応援してくれる会社でしたので、全部有給にしていただいたり、勤務体制に至っては、半日勤務で、午後はサッカーをすることを仕事として認めてくれていました。ジムも無料で開放してくれていましたし。“サッカー王国“静岡に守られていたように感じますね。

黎明期を駆け抜けた軌跡

――そしていよいよ女子サッカーが正式種目になり、オリンピックやワールドカップなど、日本女子サッカーが国際舞台に立つことになりました。初めての国際大会は、1991年のワールドカップでしたでしょうか。

(半田) いいえ、90年、北京で開催されたアジア大会でしたね。カズさんやラモスさんとか、バレーボールの大林さんたちと、同じ選手村で過ごしたりして。女子サッカーが正式種目になったという実感がありましたね。この大会で私たちは準優勝になってメダルを獲りました。私たちはそもそも、大きい大会を目指していたわけではなく、やっているうちに、目の前に大きな大会が急に現れたという言い方は変ですけど、そういう目標があるのなら、みんなで頑張ろうよと当時のメンバーで話していましたね。

 

――そして翌年の91年、初めてワールドカップに出場しましたが、その当時、世界における日本は、どのような位置づけだったのでしょうか。

(半田) もう、全然相手にもされないというか、予選リーグで敗退しました。予選リーグを勝ち上がるどころか、出場することがやっとの状態。あの頃は、中国、台湾が強かった。韓国も強くなりかけていましたね。

 

――その5年後に、女子サッカーはアトランタ・オリンピックで初めて正式種目になり、サッカー日本女子代表はオリンピック初出場を果たしました。

(半田) 私たちサッカー選手は、オリンピックよりもワールドカップの方を重んじているところがありますよね?私もそんな認識でした。でも初めてワールドカップ出場した時よりも、オリンピックに出場した時の方が盛大でした。テレビ局や新聞社からの取材、それに、市や、近所の人まで応援してくれる。周りの反響に驚きましたね。オリンピックって凄いなと思いましたね。結果は予選リーグ敗退でした。出国時は賑わっていましたが、帰国の時は誰もいなかったですね。(笑)私はこの大会を最後に、現役を引退しました。

 

――引退後は、すぐに指導者の道に進んだのでしょうか。

(半田) そもそも、指導者としてお金をもらうという発想がありませんでしたね。しかも、女性の指導者ですから。今はたくさんいますが、私が引退した20年前では考えられませんでした。

 

――そんな状況の中で、どのように指導者への道を切り拓いていったのでしょうか。

(半田) きっかけは、引退した翌年、国体に出場したことでした。代表で一緒だった弘中和子さんが監督をやっていたのですが、彼女に手伝ってくれないかと声をかけられて、引退したばかりでしたが、L枠(Lリーグ所属の選手を3名までエントリーできる制度)として出場しました。そのチームで、練習しながら中高校生の指導のお手伝いをするようになりました。その流れで、子供のサッカー教室を手伝ったり、清水FCの中高生チームを指導したり、そして、バイトしたり。このサイクルを繰り返していたら、この先どうなるのだろう?という不安もあり、調理師学校にも行きましたね。料理作るのは無駄にはならないと思って。(笑)

そんな時、思い切って「サッカーを教えて生活できるところはありませんか?」という話を持ちかけたら、鈴与時代の監督から、御殿場サッカー協会のサッカースクールを紹介していただきました。そこで2年間、小さい子供を指導していたら、今度は吉田弘さんという、橘の男子サッカー部を作った方が、うちの学校でも女子チームを作りたいという話を聞いて、それなら私を呼んでくださいと言って、今に至ります。静岡の人たちが繋いでくれたご縁のおかげですね。

S級ライセンス保持者が見据える女子サッカーの未来

――お話の中に、静岡の方々がたくさん登場していますが、やはり一つ年上の本田美登里さんから受けた影響は大きいでしょうか。

(半田) 小学校の練習に行く時、本田さんの家に寄って遊んでから行っていました。小学生の時が一番仲良かったかな。本田さんは1つ年上なので、私たちの一歩先をいつも歩いている、道を作っている人です。私は、その道を歩いている感じですね。選手を引退してから次々にコーチ・ライセンス取得を積み重ねて、S級ライセンスを取った最初の女性指導者なので。

 

――そのS級ライセンスについてお伺いしたいのですが、中学、高校生の指導者である半田監督が、なぜ、なでしこリーグの監督はもちろん、日本代表監督にもなれるライセンスを取得したのでしょうか。

(半田) A級ライセンスを取った時には、もうS級は必要ないと思っていましたが、長年、中高生の指導に携わっていると、行き詰ることもあります。その時に考えたことは、自分を変えることでした。そういう理由でライセンス取得を志願しましたが、なでしこジャパンの監督になりたいとか、なでしこリーグの監督になりたいという理由でないと、S級はやらせられないと言われました。やっぱり高みを目指さないとS級はダメというか、それは確かだなと。

今、同年代が色々な場所で活躍しています。ましてや、なでしこジャパンの監督(高倉麻子監督)に一緒に戦ってきた仲間がなるなんて。私は、指導者としてまだまだ未熟だと思っていますが、急に押し出されたような感覚に陥っていて、あと何年指導できるのかな、旅立った方がいいのかなと考える時期はありました。

でも、私を選んできてくれる子たちがいる。中学一年生から高校卒業まで、6年間責任を持って面倒見ると言っておきながら、途中でいなくなることはできない。それに、ここはクラブとは違って学校なので1年ごとに主力選手が変わっていきます。1年ごとに卒業して、新しい子たちが入ってくる。その子たちが、この先どう成長していくのかなと考えていると、いつまでも辞められませんよ。(笑)

 

――中高生の指導にあたり大切にしていること、そして、やり甲斐や面白さを教えてください。

(半田) まずは基本ですね。止める、蹴る、運ぶ。これができないと、次に進めません。中学では土台を作り。高校では戦術など、いろんなことにチャレンジします。本当に基本は大事。そして、個性を潰さないようにしたいですね。速い選手は速いプレーを主張しなければいけないし、遅いなら遅いなりに足元の技術を鍛えて、視野を広げる。自分の特長を生かしてもらいたいし、色々な個性を持つ選手がいるから、サッカーは面白い。

そして、ココにいる6年間で一生の友達を作ってもらいたいですね。揉め事があったり、喧嘩があったり、仲間外れがあったり、色々なことがある中で、どうにかしていかなければいけない。喧嘩をさせないのではなく、その後にどうするかが大事だと思います。私自身もサッカーを通じて得られた一番の財産は友達です。中高時代は、一番吸収できる世代だと感じます。サッカーも、人との付き合いも、人間性も。それが一番の面白さですね。全てが成長する、全てが変化する。しかも、うちは6年間ありますから。

 

――近年、世界的に、女性審判や女性指導者など、第一線で活躍する女性サッカー関係者が増えているように映りますが、日本の女子サッカー界でも、半田監督に続く、女性指導者が増えていくことを望まれますか。

(半田) 私が高校年代にいるからだとは思いますが、女子サッカー経験者が先生や指導者になるケースは、確実に増えているという実感はあります。それが、なでしこリーグなどの上のカテゴリーにおいてはまだまだかもしれませんが、私たちが選手の頃と比べたら、劇的に増えていますね。女性指導者としての職場や、解説者などのサッカー関係の仕事など、一昔前とは比べ物にならないほど女子サッカー選手の活躍の場があります。女子サッカー界も、そういう意味でも、この何十年かで大きく変わってきましたよね。

 

――半田監督ご自身の今後の展望についてお聞かせください。

(半田) 私の地盤は、やはり静岡にあると思っています。もしこのままずっと静岡にいるのであれば、静岡は今、なでしこリーグに参戦しているチームは、静産大(静岡産業大学磐田ポニータ)とアカデミー(JFAアカデミー福島:東日本大震災の影響で現在は静岡県で活動)ですが、もし将来、この地域発祥のチームができたら、携わっていきたいなと思いますね。

 

――最後に、女子サッカーへの提言、メッセージなどがあればお願いします。

(半田) やはり、先頭がしっかりしていなければ、下はついていけないと思います。先頭がしっかりしていれば、後はついてきます。そういう意味でも、まずは、なでしこジャパンと、なでしこリーグが、良い環境でサッカーができることが大切です。トップが常に安定していて、力を持っていて欲しい。そして、先頭切ってチャレンジする姿は、次世代の子たちの憧れになります。まだまだ女子サッカーを見守ってくれている方が多いので、その方たちの期待に応えていきたいですね。

 

――本日はお忙しい中ありがとうございました。

半田悦子(はんだ えつこ)
 1965年5月10日生まれ

出身地:静岡県

現役時代のポジション:FW

常葉学園橘高校女子サッカー部監督

経歴:清水第八SC→清水FC/鈴与清水FC

 

 

【取材後記】

終始和やかな雰囲気で執り行われた半田悦子さんとの対談を終え、心に響く言葉があった。それは静岡愛という言葉。実際に彼女が口に出したかどうか、記憶は定かではないが、彼女が語った言葉の端々は、確かに静岡愛が溢れていた。

今回の取材後記では、上記に並べたエピソードとは別に、半田悦子さんが、監督冥利に尽きると話していた、こぼれ話をご紹介しようと思う。

 

――半田監督は、常葉学園橘女子サッカー部創設から携わって、今年で14年目になりますが、いつ頃から強豪校として名乗りをあげるようになったのでしょうか。

(半田) 初めからですね。初めからというと失礼かもしれませんが、1期生は6人しかいませんでした。6人ではサッカーができないので、その年は男子の中に入れてもらい、フットサルを1回出たくらいで、試合は全くできませんでした。そして2年目に12人入ってきて、総勢18人になりました。それから、U15の全国大会に行けるようになって、そこからは大抵、全国大会に行けるレベル、行けない年もありますが、当時からそのくらいのレベルを維持していますね。

 

――それは指導力の賜物ですね。

(半田) 静岡という地盤ありきだと思います。小学生の頃から男の子とやっていたり、女子チームがあったり、とにかくサッカーをやっている女子が多いですからね。その地盤の中で、私たちは毎年、セレクションをさせてもらい、中学から高校卒業まで6年間で育成していくというスパンを変えずにやっているからだと思います。

 

――その中から、代表選手に選出された選手はいますか。

(半田) 高木ひかりですね。彼女は3期生ですね、1期生が26歳になりますので、ようやく少しずつ、なでしこリーグで活躍する選手が出てきたところですね。

 

――育てた選手が代表選手になる。やり甲斐も大きいですね。

(半田) はい。大きいですね。ひかりは、小6で見た時から、「この子は絶対良い!」と思いました。男の子の中で10番つけてキャプテンですからね。6年の時からもう違っていた(笑)彼女は、現在になでしこジャパンのメンバーの中では、唯一の静岡出身です。彼女に続いて、静岡で生まれ育った選手が、どんどん現れて欲しいですね。

 

――これまで伺った半田監督の話の中からは、本当に静岡愛を感じますし、静岡が紡ぎ上げた縁を感じます。そして、半田監督、自らが繋いでいきたい想いを感じますね。

(半田) 静岡から離れられない感じがしますよね。(笑)私のところはあくまでも通過点。ここでやり切って欲しくないし、私も全部を教えるつもりはない。その先を目指して欲しいなと思います。

<了>

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