サッカー馬鹿

2017.7.19

逆境を楽しむ。不屈の精神で挑み続ける。だから私は今ここにいる。<伊賀フットボールクラブくノ一 野田朱美監督インタビュー&取材後記>

逆境を楽しむ。不屈の精神で挑み続ける。だから私は今ここにいる。<伊賀フットボールクラブくノ一 野田朱美監督インタビュー>

このタイミングでの対談は如何なものか。正直なところ、伊賀訪問を何度躊躇したことだろうか。プレナスなでしこリーグ2017、伊賀FCくノ一は第10節を終え、わずか一勝を挙げるにとどまっている。降格圏をさまよい不振に喘いでいるチームの、しかも指揮官自ら渦中の心境を語っていただくには余りにも酷な状況であったはず。しかし、要らぬ配慮は杞憂に終わることになる。

梅雨の雫が転がる、青々と生い茂る天然芝のグランドに旧丸山中学校の古びた校舎が腰を下ろす。長閑な田園風景にひっそりと佇む旧校舎の一画にくノ一のアジトは在る。駐車を知らせる砂利の摩擦音が鳴る、口笛を吹きながら颯爽と現れた野田朱美監督の表情は実に晴れ晴れとしたものだった。

初めて野田朱美を目撃したのは1996年アトランタ五輪。この大会は女子サッカー界にとって特別な大会だった。女子サッカーがオリンピック正式種目となったこと。そしてサッカー女子日本代表のオリンピック初挑戦でもあったからである。惨敗に終わった初の国際舞台でエースナンバー10を背負い、主将としてチームを鼓舞し続けていた野田朱美の勇姿に、清々しさを覚えたサッカーファンも少なくないだろう。

中学三年生から名門べレーザに身を置き、瞬く間にスターダムにのし上がった現役時代。引退後はJFA特任理事を務め、べレーザの監督に就任。その後、女性初の日本サッカー協会女子委員長を歴任し、指導者コーチライセンス最高峰のS級を取得。非の打ち所がない華麗なるキャリアを駆け上がる野田朱美。かつてのスターは、今もなおスターであり続ける。

ところが、苦労知らずのエリートなど存在するはずはない。「いつも苦しい時に声がかかる。」野田朱美は常に茨の道を選択していたのだ。逆境を楽しむ。不屈の精神で挑み続ける姿は、アトランタ五輪から21年目を迎えた現在でも変わらない。なぜ、野田朱美は伊賀に辿り着いたのか。彼女は何を見据え、何処に向かおうとしているのか。逆境を覆そうとする今だからこそ耳を傾けてみたい。

©IGA KUNOICHI

(野田) 伊賀の監督を引き受けようと思った一番のきっかけは、JFA女子委員長時代に遡ります。26歳で現役を引退して、その後、ゴルフ留学でアメリカに渡りました。5年ほどの挑戦になりましたが、2002年、日韓W杯の時に、きっぱりとゴルフを諦めて、新しい出発をしようと決めました。せっかくのセカンドキャリアですから、180度違う自分を目指したいと思ったこと。そして、私たちは、常に道なき道を切り拓いているという自負もありました。

私たち世代には先輩がいないですし、自分たちの挑戦が、後に続く後輩の道になっていく。セカンドキャリアに苦しんいでる仲間の姿も多く見かけていたので。私の再出発は、ホワイト、ブルーで例えるなら、ホワイトカラーのチャレンジに決めました。実はその話は、ここが大元になります。

ご存知だと思いますが、女子サッカーは景気や結果に大きく左右されながら、常に浮き沈みを繰り返してきました。女子サッカーが本当の意味で根付くために活動をする。これがセカンドキャリアの大きな目標でした。そのためには知性が不可欠です。現役としてのキャリアはあっても、それは所詮過去の話ですし、そこから先は、一からの出直しになる。そのことは、ゴルフの挑戦で痛感しました。

私がオリンピックに出場したことなんて、アメリカでゴルフをやっている人たちにはどうでもいいことであって、ゴルフが下手だという現実を目の当たりにしたこと。そして、海外遠征には、もう行き慣れていると自負していましたが、それは周りの協力があってこそ、結局一人では何もできなかった。

そういった現実に直面したことで、まずは自分のできることからやろうと決めました。コラムを書いたり、講演したり。舞い込んできた仕事に対して、すべてNOと言わずに引き受けてきました。こういった活動が次第に評価されるようになって、現役時代の経験や、マネージメントなど新たな学びから得た視点を織り交ぜ、女子サッカーの繁栄とサッカー界の貢献に携わるようになりました。

その活動の大きな目的は、Jリーグのクラブに女子チームを持って欲しいということ。地域に根ざすという、Jリーグの理念に沿って、ユースだけではなく、女子チームも持って欲しい。それが女子サッカーの発展に一番つながると思いました。理事になったことをきっかけに、私はJクラブを回らせて頂くことになりました。結構な数のクラブを回りました。その時、思い知ったのは、Jリーグのクラブでも、経営は大変だという現実です。これまでビッククラブにしかいなかった私にとって驚愕でした。ちょうどその頃に、ベレーザの監督を引き受けることになりました。

 

――当時のベレーザはチーム存続危機が囁かれていた最中でしたよね。その時、野田さんは、どのような状況に置かれていたのでしょうか。

(野田) いよいよヴェルディの経営が危ないということは聞いていました。多くの選手は移籍を余儀なくされ、経営陣を一掃して、Jリーグから出向した羽生英之さんが、社長に就任しました。その羽生さんに説得されたのがきっかけでしたね。「いつ潰れてもおかしくはない。ベレーザはお前が愛したチームだろ、本当に最後になるかもしれないし、いや、最後にならないために俺も頑張るけど、お前が入るからには、本気で存続を目指す。もし潰れるのであれば、お前が看取ればいい。」羽生さんの熱意を前に、思い切ってやってみようと思いましたね。

 

――ホワイトカラーから一転、監督としての第一歩を踏み出したわけですが、ベレーザの監督として、どのような光景を目撃し、今後の活動にどう影響をもたらしたのでしょうか。

(野田) ベレーザの監督をやった2年間で、クラブの立て直しは成功しました。経営が上手くいかなければ主力は抜かれていく、それでも残ってくれたメンバーと一緒に、貧乏でも楽しくやってくれましたし、INACにはリーグ戦では勝てませんでしたが、なんとか今までの歴史を保てるような順位にいて、カップ戦を獲ることができました。それに伴い、2つしかなかったスポンサーも10を超えるようになり、経営的にも目処が立ちました。羽生さんは凄いなと思うと同時に、私は、指導者として、まだまだ未熟だということを目の当たりにしましたね。

俯瞰しなければ見えない光景がある。

©IGA KUNOICHI

――その後、S級ライセンスを取得して、現場ではなく、女子委員長として活動されるのですね。

(野田) そうですね。私が女子委員長になった頃、女子サッカー界は変換期を迎えようとしていました。女子をわかっている方なら、これだけの年数、メンバーが変わらないということは、必ず不遇の時が来ることは、どなたでも予想がつくと思いますが、まさにベレーザの監督の時と一緒で、あまり良い時期ではありませんでした。性格的なこともあって、そういう時の方がやり甲斐を感じますし、一度は女子の頂点に立ちたかった。ドイツをはじめ、サッカー先進国のOGは、代表監督を含めて、様々な役職で活躍しています。そこを目指していきたいという気持ちも強かったので、私は、この機会をチャンスだと捉えていました。

私は、女子サッカー界のことを熟知していると思っていましたが、1年間かけて全国各地へ女子サッカーの現場を隈なく視察しました。普及から育成、全てが薄いと感じましたし、その中で、どうしたら女子サッカーが繁栄するのだろうか模索していました。そして次の1年間で、実際に行動に移す。この2年間の経験がかなり大きかったですね。

 

――非常に興味深い2年間ですね。

(野田) これまでは、Jクラブが女子を抱えるべき。女子単体のクラブでは難しい。そう考えていましたが、各地を回っていくうちに、少しずつ自分の凝り固まった物が溶けてきました。今、女子サッカーに必要なことは、各地域で1つずつ成功例を作っていくこと。そうしていかないと発展はないというところに行き着きました。

今後も女子委員長を続けて、全体を取り仕切ることも1つですが、年齢的にも体力的にも動くうちは、やはり地域にどんどん足を運んで、その土地の痛みを理解して、いろんな経験を積む必要がある。そう考えていた矢先に、伊賀の方から話をいただきました。

正直悩みましたが、自分には経験のないことですし、いくら地域が大事だと主張しても、居たこともなければ、やったこともない。これも縁かなと思い、引き受けて現在に至ります。

視線は常に世界へ〜伊賀に来た本当の理由〜

©IGA KUNOICHI

――伊賀FCくノ一は、地方のクラブであり、女子単体のクラブでもある。確かにうってつけの挑戦ではありますが、就任オファーの時点では、シーズン途中でしたし、戦績不振でした。それでも、降格圏を目前にしたチャレンジでしたが、見事に1部残留に導きました。そして今シーズンも折り返し地点で降格圏を彷徨っています。現在のチーム状況についてお聞かせください。

(野田) 就任当初はギリギリだということもあり、まずは勝たなければいけなかった。戦術的な要素を加えて勝利に導く、そういった戦い方に偏っていましたが、そこからカップ戦に突入しました。それがターニングポイントでした。

そもそも、このチームがやってきたサッカーは、少しリトリート気味で、引いて必死に守って、蹴って頑張るみたいな感じでした。ですが、私自身がそういうサッカーをしたことがありません。自分がやってきたサッカーしか伝えられないというのは、あらかじめクラブ側に伝えてありました。

なので、壊れるかもしれないけど、やはりこのチームでも、日本が世界で勝てる、ポゼッションサッカーを突き詰めたい。私はそう考えています。それが通用しなくなったから、蹴って走るサッカーにシフトするのかといったら、絶対違って、何十年経っても体格差は変わらないし、スピードは変わらない。日本の良さをもっと突き詰めるべきだと思います。

現実を突き詰める、結果至上主義も必要かもしれませんが、やはり勝てばそれでいいとは到底思えません。やはり選手には、このカテゴリーにいる限り絶対に世界を目指して欲しいし、常に世界を目指す、世界と戦えるような選手を育てることが、リーグ各チームの役目ではないかという想いが強くあります。その曲げられない信念が今の結果です。(笑)全然、悲観的ではなくて、今はこの順位ですが、ものすごく雰囲気は良いですね。逆に選手はやりがいを持って取り組んでいます。

 

――世界と戦えるような選手を育てる事に意義があるという言葉が印象的ですが、野田監督が考えている、世界における日本女子サッカーの現在地、そして、世界と渡り合うために必要なことはどういったことでしょうか。

(野田) 良くも悪くも課題はずっと変わらない。私たちの現役時代から、やはり相手は大きかったし、速かったし、強かった。世界で通用するために、勝つために何ができるかというテーマを代々受け継いできました。

私の答えは、これまで培ってきた日本のサッカーを突き詰めることです。足りないものは何?と聞かれたら慣れだと思います。どんなにテクニックがあっても、どんなにクレバーでも、実際にあの深いタックルでシュートを阻まれるのですから。慣れることで、相手へのコンプレックスを払拭することが出来ます。

だから世界における今の日本の立ち位置は、以前とあまり変わっていないと思っていて、やれることは絶対あるし、ただ、皆がどこに自分たちのこだわりとか、ストロングを見出すか。トレンドの後追いでは、絶対にトップに立てないと思う。

常に自分たちがトレンドだと思わなくてはいけない。今はその境目にいる気がします。少し前に日本はトレンドになりました。他の国がビルドアップだったり、ポゼッションだったり、しっかりと組織を学び、発揮するようになってきた。だったら私たちは、パワーをつけるのかというと、そうではない。もう一歩先のトレンドを見出していくことが大切だと思います。

 

――日本の女子サッカーが最盛するため必要なことを教えてください。

(野田) 地域活性です。世界一になったから、オリンピックで金メダルを獲ったからではなく、本当の意味で、日本に健全なスポーツ文化が根付いていないというのが一番の大きな要因になっていると思います。悲観的に言っているわけではありませんが、カナダのW杯(FIFA女子ワールドカップ2015)に、日本戦を含めて13試合、現地で観戦しました。

一人で点々と回っていて、その時に、スタンドに座っていたら、おじいちゃんとおばあちゃんが、二人のお孫さんを連れて、ポップコーンとか、すごい量の食べ物を抱えて隣に座ってきたんですね。「こういう光景いいなぁ」と思っていたら、そのおばあちゃんが私に、「今日はどことどこが試合するんだい」って聞くんですよ。

そういうシーンに触れた時、あ、いいなって。国全体としてスポーツを盛り上げよう、スポーツに触れよう。せっかくワールドカップやっているのだから、孫たちに観せようという思いで連れてきていて、どっちが良いプレーしても、皆で拍手を送るし、ああスポーツ文化が根付くって、こういうことなんだなぁって。

日本がドイツW杯で優勝した時も、あれだけ観客動員できるというのは、女子サッカーの人気があるからではなくて、根付いているからだと思うんですね。景気に左右されないというのは、今、Jクラブが目指しているのと一緒で、たとえJ 2に落ちたとしても、地域の方が支えていく。まだまだ文化として根付いていないことを実感します。

 

――最後に、今後、伊賀という地域を、どうやって盛り上げようとお考えですか。

(野田) このクラブは40年という、女子サッカー界の中で一番長い歴史があります。ですが、本当の意味で、伊賀くノ一が根付いているかというとそうではない。その現実が一番大きく、自分の中でも響いています。やはり、いろんな方々の理解と協力なくして発展はないと思うので、観客動員もスタジアムも、私たちのサッカー以外の外的要因のところがもっと繋がりを持って、本気でこのクラブをここの地域の象徴にしたい、シンボルにしたいっていう思いが双方になければ実現には至りません。

片思いでは成し得ないことを、いろんな方々に解ってもらいたい。勝負はその後で、心からこのクラブ、くノ一が好きだという想いが、もっと一体化すれば、必ずうまくいくと思います。Jクラブにはない良さが、たくさん出てくると思うので、私も地域の方々とコミュニケーションを取っていきたい。ここからがスタートですね。

 

――本日はお忙しい中、ありがとうございました。

野田朱美(のだ あけみ)

1969年10月13日生まれ

出身地:東京都狛江市

現役時代のポジション:MF

利き足:右足

 経歴:読売サッカークラブ女子・べレーザ(1989~1991)→読売日本サッカークラブ女子べレーザ(1992~1993)→読売西友べレーザ(1994)→宝塚バーニーズレディースサッカークラブ(1995~1996)通算:127試合75得点

監督歴:日テレべレーザ(2010.11~2012)→伊賀フットボールクラブくノ一(2016.5~)

代表歴:76試合出場24得点(1984~1996)

【取材後記】

これまで様々なクラブの多くの関係者に同じ質問を繰り返してきた。「女子サッカーの魅力とは。」まるで示し合わせたかのように、同じ答えが返ってくる。「ひたむきさ」であると。それは、景気と結果に左右され、浮き沈みを繰り返してきた女子サッカーの歴史と、苦難の道のりに立ち向かうべく共通の掛け声なのかもしれない。

しかし、この「ひたむき」というフレーズに多少なりの違和感を感じずにはいられなかった。確かに、ひたむきな姿勢は美しいかもしれないし、多くの感動を生み出すかもしれない。ただ、楽しくないのだ。どんなに崇高な理念を掲げたとしても、楽しさを生み出さない限り人々から愛されることはない。

サッカーは慈善事業ではない、ましてや、スポーツ事業でもない。プロリーグである以上、興行であるべきではないだろうか。女子委員長時代に多くのJクラブを訪問した経験をお持ちの野田朱美さんに、リーグのあるべき姿、そして、クラブの在り方について語っていただいた。

(野田) そうですね。リーグはエンターテインメントであるべきだと私も思います。お金をいただいているわけですから、下手でも、ひたむきに頑張っていますでは話になりません。決して、自分たちが満足するためにサッカーはしてはいけない。たとえば、途中交代させられて悔しい思いをしていたとしても、握手して、手を振らなければいけないし。選手もそうだし、クラブも監督も。エンターテイナーとしての自覚が必要だと思う。

私の場合、これを良しとするかは別として、日焼けしないとか。(笑)夏でも手袋してバイザー被って。異様な光景に映るかもしれませんが、エンターテイナーとして、私は女性監督を売りにしたいから。

 

――確かに白い(笑)

(野田) 執念ですね。(笑)スピードもパワーも男子とは違いますから、そこを追っても仕方がありません。どこかで女子らしさを出していかないと、男子のサッカーの方が面白いに決まっていますからね。

 

――競技力だけを追わないってことですね。

(野田) そうですね。

 

――ゴルフやプロレスとニュアンスが似ていますね。

(野田) そうかもしれませんね。

 

――女子サッカーが、男子とは違う魅力を発揮するためにはどうしたらいいでしょうか。

(野田) 女子サッカーは、コートの大きさとか、ルールとか、全部男子と同じです。そういったスポーツは、おそらくサッカーしかなくて、テニスもセット数が違うとか、バレーボールもネットの高さが違うとか、必ず女子が面白くなるようなルールに変更されています。体の構造の違いを加味した、様々な設定がありますが、サッカーにはそれがありません。それが良くも悪くも、エンターテインメント性を妨げる要因になっているのではないかと思う。

 

――野田さんは、女子委員長時代に多くのJクラブを訪問していたと仰っていましたが、なでしこリーグが、Jリーグを参考にすべき点はありましたか。

(野田) やはり、クラブライセンスという制度は画期的ですね。3期連続赤字が出たらカテゴリーが落ちてしまうという。Jクラブにとっては死活問題です。しかし、そのおかげで健全なクラブ経営を生んでいるのも事実です。ところが、なでしこリーグの場合、Jクラブの下部組織の他に、女子の単体のクラブや、NPOや学校法人など混在しています。プレッシャーがない中での運営ですから、クラブ努力や、責任感が芽生えにくいのが現状です。観客動員に躍起にならなくてもいい状況は、発展の妨げにもなっていることを見落としてはいけない。

<了>

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