SNSは、ものすごい速度で「人気者」をつくり出し、さらにものすごい速度で「気にくわない人間」の人生を、取り返しのつかないものにしてしまう。
瞬時にだれでもつながるソーシャルネットサービスは、ものすごい速度で「人気者」をつくり出し、さらにものすごい速度で「気にくわない人間」の人生を、取り返しのつかないものにしてしまう。裁くコストのほうは、無料で秒速、無限に安くなり、裁かれた者は、あっという間に泥沼に突き落とされる。
糸井重里さんが毎日発信されている『ほぼ日(ほぼ日刊糸井新聞)』の「今日のダーリン」というコラムを追いかけています。特に今朝届いていたコラムが心に響いたので紹介したい。その中の一文を抜粋したものが冒頭の引用部分です。
これは“裁く”ことについて書かれたコラムです。「人は罪を犯してしまう生き物である。」そう説いたイエス・キリストの言葉から始まる文面には、裁くことの”重さ”と”怖さ”が綴られています。
上記の文面にある通り、SNSは瞬く間に人気者を生み出す反面、気にくわない人間を生み出してしまう。陰口程度で終わるのならまだしも、SNSの恐ろしさは、公の場で、無数の人間が寄ってたかって、その”気にくわない人間”を叩きのめしてしまうことがある。当人たちはその重さすら認識せず、遊び感覚でそれをしてしまうから尚のこと恐ろしい。
“常識や正義”その感覚は人それぞれ解釈が違う。属性が異なるコミュニティー同士、全く逆の論調が展開されていることも珍しくない。その狭い定義の中でボクたちはつい正義と悪を分別してしまう。
ボクたちはSNSを使う中で、”裁くことの重さと怖さ”を忘れてしまっているのではないかと、糸井さんの言葉にハッとさせられました。
自分の主張を押し通すために、他の誰かを矢面に立たせようとしてしまう。自分の人気をひけらかすために他の誰かを祭り上げようとしてしまう。コミュニティーの結束は時に排他的な行動を沸き立たせてしまう。
一部の人たちの間で盛り上がるこの手のやり取りを第三者が目にした時、それを”裁き”だと捉えられても返す言葉がありません。
賛否両論あって当たり前、それを寛大に受け止められない度量だから誰かを裁こうとしてしまうのではないか。内省しました。
会話の8割は他人の噂話だという話を聞いたことがある。まあ自分の事ばかり話したがる人もいるかもしれないけどね。SNSにおいても同じことが言えると思う。
その考え方も良いよね、でもボクはこう思うんだ。それも面白いよね。参考にさせてもらうね。いい大人なんだから、そのくらいの器を示したいものです。
〈了〉