日記

2018.2.13

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敢えて「空気を読まない」という選択、それは”突破力”というコトバに置き換えられる。

敢えて「空気を読まない」という選択、それは”突破力”というコトバに置き換えられる。

野生の本能(画像はオオカミ)

あの人はどうして気づかないのだろうかと、プンプン怒りながら掃除をするよりも、キレイな方が自分も気持ち良いし、お客さんも喜んでくれるだろうなとワクワクしながら掃除した方が気持ちが良い。

あの人に文句を言われるのが嫌だからと、気疲れしながら発信するよりも、自分が嬉しいと感じたことを仲間たちと分かち合おうと思いながら発信した方が楽しさが伝播すると思うんです。

嫌な奴のことを考えながら行動するということは、そのあいだは他人の人生を生きていることと同じ。自分の人生を生きないともったいないというお話。うろ覚えですが何処かで誰かから聞いた話です。良い話だなと思いました。

ここのところ、「空気を読め!」という類の主張をしています。それは気づいているのに、敢えてそれをするのか、それとも、気づかずにしてそれをやるのとは、雲泥の差があるからです。

それは、空気を読めるがあまりに、行動を躊躇してしまうことへの注意喚起でもあります。「空気を読まない」という選択肢もあるということです。

それは”突破力”という言葉にも置き換えられます。可否を問わずに、強引にことを進めてしまおうという選択です。

そもそも、その場に充満している空気をあなたはどう受け止めてるのかということ。もしかしたらそのコミュニティーには、「否定的な意見は許されない」という空気が充満しているかもしれないし、「勝手なことは言ってはいけない」という空気かもしれません。そういった場において「異なる発想」はクーデターの如く鎮圧されてしまいます。

「空気を読むこと」と言いなりになることを同義に扱うことはとっても危険です。「違う」と感じているのであれば声を上げることも時には必要ではないだろうか。新しいことを生み出すには”突破力”が欠かせません。

ただし、注意しておいた方がいいことは、突破力とは思いつきではないということ。きちんとした裏付けがあり、考えが及んでいるということ。

説得力がない、面白みがないということでは、「空気が読めない奴」と揶揄されても返す言葉はありません。要は、自分が何を考え、どう行動に向かうのか。選択の自由も責任も自分の中にあれば良いのだ。

そしてもう一つ。突破力とは失敗を恐れないチャレンジだということ。その姿は魅力的でないはずがありません。

本来「空気を読む」ことは生き抜くための術です。食うか食われるか、野生の本能のようなものかもしれません。しっかりと空気を感じられてこそ、突破力は生きてくるのだということを忘れてはいけない。狼のごとく”感”を研ぎ澄ませよう。

〈了〉

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