それでもボクはロシアワールドカップへ駆けつける vol.1
いよいよロシアワールドカップが迫ってきた。いまだチケットを手にしていない恐怖、モスクワからのツアーに申し込んだものの、モスクワまでの航空券の手配が進んでいない状況。不安は募るばかりである。
ボクにとってロシアワールドカップは6回目の観戦となる。日本代表が初出場を果たした1998年フランス大会以降、02年の日韓大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、14年ブラジル大会、そして2018年のロシア大会と欠かさず現地に応援に駆けつけている。
ワールドカップに行くためにコツコツとお金を貯めて、転職を繰り返す。気がつけば、4年に一度訪れるサッカーの祭典はボクのライフワークとなっていた。
ところが、今回に限ってはなぜかテンションが上がらない。正直なところ、ロシア行きを取りやめようかどうか迷ったこともあった。”代表愛”が薄れてきたのか、あるいは突然の監督解任、サッカー協会のドタバタ劇にシラけてしまったのかもしれない。しかし、それだけではなかった。
ボクの”サッカーの愛し方”が変わったから。これが大きな理由だった。
コラム『それでもボクはロシアワールドカップへ駆けつける 』では、日本代表との出会い、そして共に辿ってきた道程、ロシア行き直前の今感じてることなどを綴っていきたい。
そして、ロシアワールドカップへ向けて、じわじわと高揚感を高めていきたい。
1985年 はじめての日本代表戦
1985年10月26日、記憶は曖昧だが計算上、小学6年生の頃に遡る。生まれて初めての日本代表戦を観たのは旧国立競技場、メキシコワールドカップ出場をかけた大一番、宿敵韓国との対戦だった。
スコアは0-2、もう後がない状況で日本はペナルティーエリアからわずか外、絶好の位置でFKを獲得した。キッカーは背番号10番 木村 和司。右足から放たれたシュートは美しい弧を描いてゴールネットを揺らした。今もなお伝説のFKと語り継がれるスーパーゴールだった。
追いすがる日本はその後、日本への帰化が認められた与那城ジョージが途中出場。熱狂的な観客にまじって「与那城コール」を叫んだことは今でもハッキリと覚えている。しかし結局、日本は韓国に敗れワールドカップ出場を逃してしまう。
1986年 メキシコワールドカップ
はじめてワールドカップを観戦したのは、中学1年の時、夜更かしを決め込むか、録画観戦に妥協するのか。睡魔と戦いながらボクは毎日テレビに釘付けになっていた。
メキシコワールドカップはアルゼンチンの英雄 ディエゴ・マラドーナの大会だった。イングランド戦で魅せた5人抜きゴールや、手にあたりゴールしたにもかかわらず、それを”神の手”だと言ってのけてしまうなど、圧巻のプレーで存在感を示したマラドーナはもはや神のようだった。
超一流のプレーに完全に心奪われたサッカー少年は、彼らが主戦場とするヨーロッパ・サッカーシーンの虜になる。良くも悪くもメキシコワールドカップで味わった興奮がボクの人生に大きな影響を与えた
1996年 EURO’96
EURO’96 イングランド大会決勝 ドイツvsチェコを観戦したのは、ライン川をまたぐドイツ西部の街デュッセルドルフのビアホールだった。
ヨーロッパサッカーへの憧れはボクをドイツへといざなった。ドイツで美容師をするために渡欧したほんの数日後、たまたま立ち寄ったビアホールでこの試合を観戦した。
先制したのはチェコの方だった。残り時間30分でゴールを奪われたドイツ、ビアホール中が殺伐とした空気が充満する。ところが救世主は突然現れた。途中出場のオリバー・ビアホフが同点ゴールを奪い、試合は延長戦に突入。さらにビアホフが決勝点(ゴールデンゴール)を挙げ3度目の優勝を果たした。
街中が歓喜に沸く中、ボクは「これが日本だったらなぁ」と少しばかりの寂しさを感じた。
1997年 ジョホールバルの歓喜
1997年11月16日は、日本のサッカーファンなら誰もが忘れることのない歴史的な1日となった。”ジョホールバルの歓喜”という名で語り継がれるこの日は、我らが日本代表が史上初のワールドカップ出場を決めた日だからだ。
奇しくもこの日はボクの誕生日でもあった。渡欧から1年半後、未だ言葉が拙く、友人もいなかったボクは、史上初の寂しい誕生日の日を過ごす羽目に。自宅でたまたま付けたテレビで放映されていたのが日本vsイランだった。
この試合に勝てば悲願達成となる。固唾を飲んで見守る中、中山 雅史のゴールで先制した日本だが、前半終了間際に同点ゴールを奪われてしまう。嫌な時間帯でゴールを許した日本は後半早々に追加点を与えてしまう。
岡田 武史監督が決断したのは、これまで英雄としてピッチに君臨していたカズ(三浦 知良)を途中交代。代わりに入った城 彰二が期待に応えて同点ゴールを挙げる。
試合はそのまま延長戦に突入。得点が決まった瞬間に勝敗の決着がつく、当時採用されていたVゴールシステムの中、日本が勝利を手繰り寄せる。中田 英寿がドリブルで中央に持ち込みシュートを放つ、GKが弾いたボールを岡野 雅行がスライディングで流し込みゴール!
翌年、隣国フランスで開催されるワールドカップに応援に駆けつける決意をした瞬間だった。
vol.2へつづく
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