サッカー馬鹿

2018.1.29

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元Jリーガーだからではなく、自分じゃなきゃ出来ないことをやる。それが僕のセカンドキャリア 〜デフサッカー発展のために〜<深川友貴氏インタビュー&取材後記>

元Jリーガーだからではなく、自分じゃなきゃ出来ないことをやる。それが僕のセカンドキャリア 〜デフサッカー発展のために〜<深川友貴氏インタビュー>

(右)コンサドーレ札幌時代の深川友貴さん

セカンドキャリアについて想いを巡らせると、昨年インタビューさせていただいた名蹴会会長金田喜稔氏の言葉が脳裏をよぎる。

『Jリーガーのセカウンドキャリアを考える。いま目の前にあることを真剣にやること。そうしないと次はない。金田喜稔氏インタビュー』

Jリーガーのセカンドキャリアについての問いかけに、金田氏は間髪いれずにこう切り出した。

「プロを目指した人間がプロになり、選手として活躍できなくなりサッカー界から去る。周りが心配するのはおかしな話です。自分で選んだら道なんですから、当たり前でしょう。第2の人生も自分で責任取れという話です。」

プロサッカー選手に限らず、遅かれ早かれ、人は誰しもセカンドキャリアを迎えることになる。プロ職人の引退、あるいは定年後のサラリーマン、転職もまた然りである。

情熱を傾けてきたキャリアが終わろうとする時、彼らは何を想い、何を志すのか。若くしてセカンドキャリアを余儀なくされた元Jリーガーたちは新天地で再び輝きを取り戻すことが出来るのだろうか。

「元Jリーガーとしてではなく、自分にしかできないことをやる、自分が変わることが大切。」こう語るのは、セレッソ大阪、コンサドーレ札幌、水戸ホーリーホックで活躍した深川友貴氏である。

北海道室蘭市出身の深川氏は、道内敵なしと言われた名門室蘭大谷高校でフォワードとして活躍、一年生でレギュラーを掴んだ深川は全国高校サッカー選手権に出場。三年生の時にU18日本代表に選出、名波浩らと共にプレー。高校卒業後は国士舘大学に進学、卒業後プロサッカー選手へ。セレッソ大阪→コンサドーレ札幌→水戸ホーリーホックとキャリアを積み重ね引退。

現役引退後、2003年から古巣コンサドーレ札幌U18コーチ。2011年からは城西大学サッカー部コーチとして活動してきた。そして現在は全国各地でサッカースクールを開催するかたわら、障がい者サッカーの支援活動を行うなど活躍の場を広げている。

今回のインタビューでは、充実のセカンドキャリアを奔走する元Jリーガー深川友貴氏の生き様と、彼が情熱を注ぐ”ろう者サッカー”の現状と可能性についてお届けしたい。

デフサッカーの現状

(深川) 現在は、週末に全国各地でサッカースクールを開催して、サッカーを通じて子供たちの笑顔を増やしていこうという活動と、障がい者サッカー、特にろう者サッカーや脳性麻痺者サッカーに対してアドバイザー的な立場でサポートしています。今回は、ろう者サッカー(デフサッカー)についてお話しさせてください。

 

――まずはデフサッカーと、その現状について教えてください。

(深川) まず、デフとは音声言語を取得する前に聞こえなくなくなった人、手話を第一言語とする人と言われています。聞こえ方は様々なこと、補聴器をつけることでかなり聞こえの助けになっている方もいます。

デフサッカーは、上記の理由により、公平性を保つために試合中は補聴器を取り、聞こえない状態でプレーすることになります。各地域での社会人リーグなどでもデフサッカー選手たちは補聴器を外している選手が多いです。これは試合中に外れ壊れるのを防ぐためです。

北海道が発祥の地と言われています。現在、障がい者サッカーは※7つの団体がありますが、その中で最も関わりが方が難しいと言われているのがデフサッカーです。

※7つの団体 JIFF ☆アンプティサッカー(切断障がい)☆CPサッカー(脳性麻痺)☆ソーシャルフットボール(精神障がい)☆知的障がい者サッカー☆電動車椅子サッカー☆ブラインドサッカー(視覚障がい)☆ろう者(デフ)サッカー(聴覚障がい者)

なぜ難しいと言われているのかというと、ろう者は見た目が健常者と変わらないからです。その上で、声をかけられても反応できない。例えば後ろから声を掛けられても気付かないとか。

特に健常者側としてなんですが、手話ができないとコミュニケーションが取れないと思いがちなので、互いに距離を置こうとしてしまいます。逆に、ブラインドサッカーですと、目が不自由だとわかりやすいので、手を差し伸べやすい。それだけに普段の生活では困難な事は多いと思われますが。

僕は、デフサッカーと10年くらい関わっていますが、手話ができないのは友さん(深川さん)くらいだと、みんなから笑われています。僕は基本的に誰に対しても高いテンションで表現するタイプです。そんな彼らは人の表情から人間性を読み取ることに長けているので、笑顔で応えてくれますし、本当に助かっています。

 

――デフサッカーと一般的なサッカーとの違いを教えてください。

(深川) 審判の笛の音(ジャッチ)がわからないだけで、ルールは全く同じです。その中にコミュニケーションの難しさが含まれます。デフサッカーの歴史を辿ると、昭和30年、まだサッカーではなく蹴球と言われていた時代にさかのぼり、北海道の札幌ろう学校で始まりました。

当時、教員をしていらした故綿谷弘一先生をはじめとする、ろう学校にいたサッカー経験者の先生たちにより指導が始まりました。その綿谷先生の熱意と、ろうの子供たちに沢山のサッカーをする機会を与えたいと健常者と同じ大会に出場していたそうです。僕の母校でもある室蘭大谷高校(現北海道大谷室蘭)とも対戦するほどの北海道の強豪校へ。

しかし、彼らは、音が聞こえない、感じ取ることができない事もあるので、笛が鳴ってもプレーを続けてしまう事もあり、当初はアフターファールを取られてしまうケースも多く、汚いプレーが多すぎるという指摘を受けたり、馬鹿にされることも多かったそうです。

現在は主審がフラッグを持って笛と同時にフラッグも掲げて試合をコントロールしています。当時はまだ障がい者サッカーへの理解も薄かった時代なのでその頃の経験が現在に繋がってますね。

 

――デフサッカーの世界的な位置付けはどうのようになっているのでしょうか。

(深川) デフワールドカップもありますが、実は、パラリンピックでもない聴覚障がい者だけが参加出来る、デフリンピックという世界大会があります。他国ではオリンピックと同等の位置付けをされている国もあります。例えばオリンピックの金メダリストとデフリンピックの金メダリストの報奨金が同額など、場合によってはその後の生活が保証されるとかもとかもあるそうです。

そう考えると、世界的にはデフリンピックをいろんな人たちが応援していますが、日本においては、デフリンピックの存在自体あまり知られていません。数年前は約3%ほどで、昨年はトルコで大会があったんです。しかし、そんな年でさえ国内では10%ほどの認知度と伺っています。

 

――パラリンピックの出場資格はないのですね。

(深川) 身体的には問題ありませんからね。実は、デフリンピックはパラリンピックよりも歴史は古いそうです。

デフサッカーとの出会い

北海道ろう者代表チーム14連覇

――深川さんがデフサッカーに関わるようになったきっかけを教えてください。

(深川) デフサッカークラブは北海道苫小牧市で最初に出来ました。チーム名は道南デフサッカークラブで、このチームが解散しました。その後、先輩たちの意思を継承し、北海道苫小牧デフフットボールクラブ(HTD.FC)という、ろう者だけのサッカークラブが誕生しました。

そのクラブに健常者として関わり、道南デフサッカークラブの頃からマネージャーだった田村直美さんが手話を勉強しながら運営等もサポートしていました。過去に北海道ろう者代表は全国ろうあ者夏期体育大会で14連覇するほど勢いがありました。

しかし、全国大会への大会参加資格が現住所の都道府県となり、北海道代表チームを作るには北海道在住者で作る必要があり、就職で北海道を離れる人も増えました。そういった状況から、北海道代表チームを作ることが困難となり不参加や参加しても負けることが多くなりました。もちろん、HTD.FCも人数が少なくなったりとチームが組めなくなった事もあったそうです。

そんな状況の中、田村直美さんがコンサドーレ(札幌)のホームページに1通のメールを送りました。「一度で構いませんので、プロのサッカーコーチにろう者サッカーチームを指導してもらえないでしょうか。」と。そのメールをたまたま当時の社長(児玉氏)が見て、それならば派遣致しましょうということになり、僕が指名されました。

 

――コーチ時代の頃ですね。

(深川) はい。U18のコーチをやっている頃でした。実は僕、室蘭出身で室蘭にも聾学校がありました。通っていた小学校と同じ地域にろう学校もあったことから、同じ年頃のろう者と出会う事もありました。後に大人になって気付いたことですが、僕はろう者に対しての配慮が欠けている人間でした。もちろん、子供だったという事もありますが。

その小学生だった頃、ろう者の女の子にバス停で何か聞かれたことがありました。その時に「何言ってるか分からないから行こうぜ」とか仲間を引き連れてバカにしたようにそこから立ち去りました。そんな事をしていた自分は、勝手に罪悪感を感じていたので最初は引き受けるのが嫌でした。そんな自分が関わっていいのかと。

だから思い切って、彼らにそういう過去もあったと正直に伝えました。その時にいた、ろう者のメンバー達に逆に笑顔で「友さん大丈夫だよ」って励まされました。なんか自分自身が抱えていた悩み事も吹っ飛んで、そしたらもう本当に自分自身が楽しくて。(笑)一回の約束だったのに「また来ます!」と言ったら、みんながすごく嬉しそうな顔をしてくれた事は一生忘れません。

 

――その後、今に至るまでっていうのはどんなプロセスがあったんですか。

(深川) また指導の機会を設けて参加させてもらえないかと児玉社長に伝えました。彼らはサッカーが大好きで、コンサドーレも応援している。社会貢献にも繋がってくると思います。だからまた行きたいと。児玉社長に理解を示していただき、それから何回か関わるようになりました。

そしたら、その年は運命的に北海道札幌市で全国大会が開催されると。それに合わせて、正式に北海道ろう者サッカー協会(HDFA)からコーチの依頼がきたわけです。その時の様子はドキュメンタリー番組『聞えなくても輝け!』で放映されましたので、もし機会があればYouTubeで視聴できますので是非。

デフサッカー発展のために

北海道ろう者サッカー代表コーチ

――デフサッカーの魅力を教えてください。

(深川) デフサッカーの魅力は集中力の高さですね。一見、ただ静かにサッカーしているように見えますが、1対1の場面がすごく面白いんですよ。どうしてかというと、選手同士が対峙した時に怖さが無いように見えるんです。何も聞こえないので、無心で迫ってきます。ボールに対してのスピード感と気迫が元プロサッカー選手の僕でも怖いくらいです。

 

――デフサッカーが抱えている問題点はありますでしょうか。

(深川) やはり活動資金の問題ですよね。じゃあどうやってお金を作るかとなると、「サッカーさえ出来れば現状でもかまわないんです」という雰囲気になってしまいます。日本代表として遠征に行くのにかなりの自己負担金が掛かります。「それじゃ大変じゃない?」と僕が言うと、「大変ですけどそのためにお金貯めています。」という具合で、ある意味その気持ちは素晴らしい事ではありますが、今後、発展や普及をさせて行くためにはどうかと。実際、過去にはお金がないから遠征には行かれないという選手もいたと聞きます。そこが障害者サッカーの難しさであり、苦しさですね。

 

――JFA(日本サッカー協会)のバックアップは受けられないのでしょうか。

(深川) そうですね、おっしゃる通りで日本サッカー協会がどれだけ関わるかっていうのが、やはり重要になってきます。どうしてお金を捻出してもらえないのかと。関連団体としては日本障がい者サッカー連盟(JIFF)という北澤(豪)さんが会長をやっている障がい者サッカー連盟があります。JIFFは加盟している7つの団体の意見などを集約しJFAとのパイプ役としての連絡窓口にもなっています。

基本的には統括はしているわけですが、実質はまだ各団体の活動状況や財務状況を確認している段階だと思います。それぞれが頑張って独自の活動の中で資金集めなど頑張っている状況ですがまだまだ団体での格差があります。特に収入の面では会費に頼らざるを得ない状況もあります。

それは加盟人数の違いなどもあり(最大、知的障がい者サッカー約5700名、最小、アンプティ(切断障がい)サッカー約100名)、すぐにはすべての団体を同じようには統一出来ない事情もあります。

皆さんよくご存じなのがブラインドサッカー(視覚障がい)彼らは体験会の実施やメディアとの関わりも大切にしながら上手に運営しています。JIFFとしての最終的な理想は関連団体の収益を集めてそれぞれに合わせた活動資金を分配していくことではないかと思います。しかし、現状はまだすぐには出来ないというのもこの状況で分かります。

実は、代表ユニフォームも普段、僕たちが慣れ親しんでいるデザインとは異なります。障がい者サッカー専用の日本代表のユニフォームがあります。そこには八咫烏が描かれたあのエンブレムはつきません。デフサッカーはデフサッカー協会の、ブラインドサッカーだったらブラインドサッカー協会の、それぞれのエンブレムを身につけています。

 

――あのエンブレムをつけることが許されていないのですね。

(深川) このエンブレムの件に関しても色々と複雑な歴史なども絡んでいるようなので僕自身なんとも言いようがありません。しかし、勝村さんもそう思われたように。特に初めて聞いた方は軒並みビックリされています。僕も最初は何も考えずに、それって可哀想だよなと思っていたんです。そうしてたまたまその話を、ろう者仲間に聞いた時に「俺達には俺達のエンブレムがある、そこに誇りがあるんだ。」と答えた仲間もいました。

それを聞いた時に、深いなぁと思う反面、自分が良いと思っていることが。実は求められてなかったという事実を知りましたね。やはりコミュニケーションを取って聞いてみないと分からなものだなと。しかし、すべてのデフサッカー関係者がそう思っているわけではなく、あの同じ八咫烏を付けて戦いたいと言っている仲間もいます。僕自身は最終的に八咫烏も付けてやってもらいたいと思っています。

 

――以前、芝生を作っている会社の人から聞いた話ですが、オールド・トラッフォード(マンチェスターユナイテッドのホームスタジアム)には、目の見えない人用の席があるそうです。試合中は彼らに専用のDJがつくそうです。“全ての人にサッカーを楽しんでもらう“世界では障害者に対して、これほどまでに取り組んでいることに驚きました。

(深川) そうですね。日本にも車椅子専用の座席はあります。僕の先輩に元車椅子バスケットボール日本代表の京谷和幸選手がいますが、彼は「車椅子での生活ではバリアフリーも進んできていろんな意味で恵まれてきている、やろうと思えばいろんなチャレンジができる。それと比べると、デフ(ろう者)はコミュニケーションの部分でやっぱり大変な事も多いよね。」と言っていました。

同じ障害者でもやはりそういう感覚を持っている反面、最近では、「筆談できますよ。」という看板もあちらこちらで見かけるようになってきました。それが、ろう者に対してのバリアフリーのようなものだと僕は感じています。

 

――デフサッカー普及のための何が必要でしょうか?

(深川) まず、手話ができなくても、ろう者と一緒にサッカーを楽しめることを知って欲しいですね。当たり前の事ですが、彼らはボール蹴ることもできるし、笑顔でコミュニケーションを取る事ができる。そして、彼らは手話でなくても口を読んでくれます。“口話”というのですが、口を大きく動かしてコミュニケーションをとれば口を読んでくれて、それに対して答えてくれる。補聴器をつければ小さな音を頼りに聞こえたり、覚えた音声で言葉を喋れる人もいます。だから、健常者の方々は、手話ができないから関わらないのではなく、まずは一緒にボールを蹴ってみようという意識を持って、口も大きく開きながら、大きな一歩を踏み出してもらえたら嬉しいですね。

 

――今後もデフサッカーの発展に関わっていきたいとお考えなのですね。

(深川) そうですね。少しずつですが状況も変わりつつあります。最近、北海道ろう者サッカー協会で主催するイベントでは、これまで、ろう者の方や一般の方も無料で参加できていたのですが参加料を徴収し有料にすることになったのです。

協会だってサッカースクール企画としてプロサッカーコーチの僕を単独で呼べるだけの資金力はありません。しかし、参加してくださる皆さんから参加費を頂戴することで定期的に開催することも出来ます。その際に参加者プレゼントとして、HDFAステッカーやキーホルダーを渡して宣伝活動も合わせて行います。

参加者はプロの指導を受けられるし、協会は僕の名前もうまく使いながら宣伝活動も出来る。そして、僕自身もボランティアではなく少なからず障がい者サッカーへの活動費が捻出できる。最近は本当にそのサイクルがうまく出来てきています。どうしても関わる際にボランティアと思いがちですが、それだけだと永遠には続けられません。

僕は彼らと一生のお付き合いをしていきたいと心から思っています。なので、お金に対しての感覚を変えることが発展や普及への第一歩だと僕は信じています。

 

――本日はお忙しい中ありがとうございました。

深川友貴(ふかがわ ともたか)

1972年7月24日生まれ

北海道室蘭市出身

現役時代のポジション:FW

経歴:室蘭大谷高校→セレッソ大阪→コンサドーレ札幌→水戸ホーリーホック

指導歴:コンサドーレ札幌U18コーチ→城西国際大学サッカー部コーチ

北海道室蘭市でサッカーを始め、その後は地元、北海道のサッカー強豪校、室蘭大谷高等学校で1年時よりレギュラー。3年時にはU-18日本代表。高校卒業後は国士舘大学に進学、在学中にバルセロナオリンピック代表に選出される。大学卒業後はセレッソ大阪へ加入し、1998年にコンサドーレ札幌へ移籍。2001年シーズン終了後に札幌から水戸ホーリーホックへ移籍。その後、2002年に現役を引退した。現役引退後の2003年からはコンサドーレ札幌でU-18コーチを務め、2011年からは城西国際大学サッカー部のコーチを務め、2015年に退任。そして、現在に至る。

【取材後記】

奇しくも深川さんとは互いに同年代ということもあり、ひと通りのインタビューを終えた後も暫しの雑談を弾ませた。本編ではデフサッカーに焦点を当てたインタビューをお届けしましたが、取材後記では、深川さんが手がける事業『ふかとも企画』について話を進めていきたい。

ブーメラン型の海パン姿の画像が印象的な、深友さんのキャラクターがダイレクトに伝わるユニークな『ふかとも企画』のWEBサイト。そこには3つのコンテンツが並んでいる。1)サッカースクール 2)講演会 3)深友グッズ まずはサッカースクールについて、具体的な活動内容をお聞きしたい。

 

――深川さんが手がけるサッカースクールについて、具体的な活動内容を教えてください。

(深川) 木曜日に大人のサッカースクールということで町田のフットサラ町田で初心者向けのサッカースクールと、シュートに特科したスクールを。今年から水曜日にコスタ横浜で大人向けのサッカースクールや障害者と健常者との交流のためインクルーシブ(ごちゃまぜ)スポーツ&サッカースクールを開催しています。あとは初心者のサッカーアドバイス、少人数や個人向けのパーソナルコーチもしています。週末は基本的には全国各地に招かれてサッカースクールや講演会などもしています。

 

――講演もなさるのですね。どんなコンテンツのお話をされるのでしょうか?

(深川) 障がい者サッカーの話もしますが、プロからセカンドキャリアへという話もします。サッカーの世界ではプロでしたが、終わってみたら何もなかったという話です。セカンドキャリアといえばコーチ業へという道筋が思い浮かぶと思いますが、僕はたまたまそこに入ることができましたが、その時僕は大きな勘違いをしていました。俗にいう天狗ですね。そうしたら次々に人が離れていくのです。一番さみしかったのは、指導している選手の心が離れていくことです。

育成という仕事に関わることで、やはり僕自身が指導者としてプロにならなければいけないということを選手から教わりました。いつまでも元プロサッカー選手だった、なんて通用しません。なぜなら、サッカーコートの作り方もわからないし、審判のやり方もわからない、どういうふうにトレーニングしたらいいのか全くわからないんです。元プロサッカー選手はプロの指導者ではないのです。逆に言うと、それだけプロの選手時代には全てが用意された環境でやっていたという事です。だからこそ、選手のプロから指導者のプロへ、本物のプロを育てるために。失敗から学んだことをどういう風に次につなげていくのか。そんなお話をさせていただいています。

 

――順風満帆にセカンドキャリアを過ごしているのですね。

(深川) いえいえ、そんなことはありません(笑)きっと、皆さんは昨年の下半期の活動から順風満帆に見えているのかと思います。ただ、ずっとサッカーに関わり生きてくると、もちろん、どん底にいた時もありましたよ。そんな時に北海道の室蘭水元サッカー少年団でサッカーを始めた時の恩師で約35年前に「お前サッカーのプロでメシ食っていけるかもしれないよ」と言ってくれた加藤誠さんがずっと見放さずにいつも厳しい言葉をかけてくれていたのでサッカーへの感謝は忘れていませんでした。そのようにサッカーで繋がった、恩師であり、小さい頃からの仲間が支えてくれたので今の僕はあるなと思います。プロのサッカー選手が終わって、本当に終わってしまう人もたくさんいますから。

 

――今後の活動、目標などはありますか?

(深川) やはり僕自身、障がい者サッカーに関わっているので、深川と言ったら障がい者サッカーと認識してもらえるように。健常者も障がい者も関係なく、いろんな人たちが笑顔でサッカーをして、それがいろんな人たちに伝わって、障がい者の人たちも幸せだよという風になるお手伝いをしていきたいですね。現時点では、Jリーグに帰るつもりはありません(笑)。

 

――目指すところは元Jリーガーの先ですね。

(深川) もうJリーグも20年が過ぎ、元Jリーガーという肩書で食おうと思ったら、そこら辺にたくさんいるじゃないですか。少なからず僕が天狗になりながら指導していた選手たちもキャリアを終えてる選手もいます。彼らの多くは、何かをやろうとしてはつまずき、今後どうしようかともがいている。もちろん、他人事ではありません。逆にそう考えると、僕の失敗も知っている、彼らと共に新たなセカンドキャリアの道を作って行かなければならないとも思っています。だからこそ、元Jリーガーだからではなく、自分だからできること、自分じゃなきゃ出来ないことをやる。それが一番の課題です。

<了>

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