謎多き“藤枝MYFC”
――では、藤枝MYFCについてお話を進めていきますね。“MYFC”という一風変わったチーム名からも、一般的なサッカーファンの目線で見て、一見、謎のクラブのように感じている方々も多いと思いますが。
(小山) そうですね。変わっていると思います。僕は今ある“サッカー界の常識”の逆をいけば上手くいくと思っています。ですから、打つ手打つ手が基本的に理解されづらい。
たくさんの地域プロスポーツクラブを作りたいと思ったきっかけが、22、3歳の頃、世界放浪の旅をしていた時のことでした。僕はアンダー世代では代表選手でしたが、10歳の時に、「僕は日本サッカー協会の会長になる」と親に宣言しました。そのために親の「日本協会は早稲田閥だから」という言葉を真に受け早稲田大に行きました。大学はサッカー推薦で入学できたのですが、大怪我をしてサッカーを諦めました。サッカー協会の道や、日本サッカーを世界レベルにするという夢も絶たれ、人生の目標を失いました。当時の僕を見た親は、自殺するのではないかと心配していたそうですが、大学を辞めて、1年間バイトして120万円貯めて世界放浪に出ました。
その時に、貧しい国の人々を目の当たりにして、サッカーできなくなったぐらいで失意の旅だと言ってぬけぬけと生きている自分に恥ずかしさを覚えました。日本人として生まれたことが、これほど恵まれていたのかと思い知りました。それならば、今ある自分の立場を生かして、何か新しいことを成功させたい。そして世界中に広めたいと思ったのです。
その後、33か国を巡る世界放浪の旅から戻り、ITの会社を立ち上げました。そうこうしているうちにまた“サッカー熱“が出てきてしまいサッカーマガジンにプレゼンの機会をいただき、Webサッカーマガジンをやりましょうという話になりました。
当時も先進的なことをやりました。例えば、サッカーマガジン60年分をスキャンしてネット上に無料解放する企画やブログサービスも始めました。好きな選手の名前を登録しておけば毎日日替わりでそのブログの表紙にその選手の写真がさしこまれる。それは結局Jリーグからアウトがでてしまいましたが、サッカーマガジンで感じたのは、ひとりのカメラマンは1試合2000枚近く写真を撮ります。採用されるのは、その中の1枚です。ということは1999枚が無駄になっているのです。それを何とか生かしたかったんですけどね。
そんなある日、スタッフから、イギリスですごく面白いことをやっているグループがあると聞きました。ネット上で1万2000人の賛同を集めて、1人1万円の会費を募り、1億2000万円集めクラブを買収、投票で運営しているという話。
――それが『マイフットボールクラブ』という形ですね。
(小山) はい。最初に無料会員を募って、選手の補強などの可否を投票したり、あとは予算を配分して何に使いますかなど、そういうことを投票で決めます。そもそも無料会員も3、4000人しかまず集まらず、その後、有料化したら、60人ほど集まってもらえましたが、その規模では結局何もできませんでした。余力も無い低空飛行でしたが3、4年は継続しましたが、敢えなく閉鎖することになりました。
今でもその企画自体は面白いと思っています。当時はまだスマホが普及してなかったので、今ならスマホを活用してもっと面白いことができるのではないかと考えています。あともう一つ学んだのは、イギリス人はその掲示板にリーダーを置かず、誰もが自由にディスカッションできるという仕組みを採用していましたが、その仕組みは日本人に合っていなかったように感じました。いつかまた復活したいなとは思っているんですけどね。
――MYFCという試みに可能性を感じますね。
(小山) 力不足でしたね。でも微妙に当たることもあれば外すこともある。惜しいんですよね。(笑)
――藤枝MYFCで行った面白い取り組みがあれば教えてください。
(小山) 藤枝の戦術は一瞬見て、アキバオタク?という風貌のサッカー経験ゼロの分析家に4年間担当してもらいました。これはJリーグクラブの中で前例がありません。彼との出会いは、元サッカーマガジン編集長の北條聡さんや担当の永原さんからの紹介によるものでした。世界のサッカーのトレンドがすごくわかりやすく解説しているブログがあると。「これはすごい!」と思いすぐに連絡を取りました。当時、僕たちは東海リーグに所属していましたが、すぐ彼に試合を観戦してもらい、戦術の分析を依頼しました。
当然、現場では「サッカー経験ゼロなんて認めない」という雰囲気がありましたが、先進的な選手にお願いして彼を含めて3人で会うことになりました。そうしたら、「これまで幾つものJリーグクラブを渡り歩いてきたけど、これほどわかりやすく伝えてくれる人はいない。」と驚いていました。こうした経緯から、Jリーグ参入初年度というタイミングで「選手が伸び、チームも伸びる未来志向のサッカーを考えて欲しい」という正式な依頼をするに至りました。
このプロジェクトの賛同者のひとりが現監督の大石篤人氏でした。大石監督と6年で優勝させようと決めました。1年目はコーチやりながらS級ライセンスの取得。2年目に正式に監督になってもらいました。そして昨年、一昨年と2年連続で7位でしたが、昨年は経営移行の引継ぎの混沌がなければ2位は可能だったのではないかと予想しています。リーグ(J3)の中では圧倒的に選手の年俸が低い我々でも7位(17チーム中)になれるわけです。彼(戦術担当)と監督とのディスカッションを深めていけば、僕は、勝ち星をコントロールできると思っています。
彼(戦術担当者)は、もともと運動嫌いで、当然、サッカーにも興味がなかったそうです。中一の時にJリーグ開幕戦(ヴェルディ川崎vs横浜マリノス)をたまたまテレビで観たそうですが、その試合に感動して、以来、彼はサッカーが好きになり、それから1日2試合、多い日は3試合、見た試合の分析を全てノートに書き溜めていたそうです。いつしかそれがブログへと変わり、メディアの目に留まったというわけです。
13歳から25年間それをやりつづけている。彼は相当な変人でもあり、Jリーグが生み出した申し子ですよね。まだ今のところ、僕たちはJ3でしか携われていませんが、これからJ1、J2の舞台を経験することができれば、日本のサッカーがもっと面白くなるでしょうし、レベルアップにつながるのではないでしょうか。
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