サッカー馬鹿

2018.10.24

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日本代表から高校教師へ。サッカーの可能性に情熱を捧げる。そのために公立高校の監督になった。〈元日本代表/元川崎フロンターレDF 箕輪 義信氏インタビュー〉

日本代表から高校教師へ。サッカーの可能性に情熱を捧げる。そのために公立高校の監督になった。〈元日本代表/元川崎フロンターレDF 箕輪 義信氏インタビュー〉

“川崎山脈”という通称に懐かしさを憶えるサッカーファンは余程の古参に違いない。

昨季(2017シーズン)悲願のJ1制覇を成し遂げた川崎フロンターレだが、そこまでの道のりは平坦ではなかった。1999年、J2参入後すぐさまJ1昇格を果たしたフロンターレだが、翌年にJ2降格の苦渋を味わう。2001年から四年間の下積みを経て2005年、再びトップリーグでの挑戦権を掴み取ったフロンターレは以降13年間、一度も降格することなく着実に戦力を積み上げ現在に至るわけだが、”川崎山脈”の名を全国に轟かせたのは、同クラブの歴史上最大のターニングポイントとなった2004年〜2005年シーズンまで遡る。

伊藤 宏樹、寺田 周平、箕輪 義信、共に180センチ越えの大型3バックは”川崎山脈”の通称でサッカーファンの間で親しまれ、ゴール前に立ちはだかる要塞としてフロンターレ黄金時代の礎を築いた。

今回のインタビュー記事に登場していただいたのは、この”川崎山脈”の一角を担ってきた箕輪 義信さんである。

1999年、ジュビロ磐田でプロサッカー選手としてのキャリアをスタートした箕輪さんは、わずか1年半で当時J2降格が決定的だった川崎フロンターレへの移籍を決断。フロンターレのJ1復帰に貢献した同選手は2005年日本代表に選出される。しかし、同時期に突発性難聴を患うなどの不運が影響してわずか1試合の出場にとどまってしまう。その後、2008年、シーズン途中にコンサドーレ札幌へ移籍。その一年後に引退。現在は神奈川県立菅高等学校の教員としてサッカー部の指導にあたっている。

元Jリーガーのセカンドキャリアは多岐にわたる。指導者としてクラブに残る者もいれば、自らがビジネスを発起し世の中に貢献しようと奔走する者もいる。彼の選択はそのいずれでもなかった。

公立高校の監督として「サッカーの可能性を突き詰めたい。」と語る箕輪さん。元日本代表選手として、元Jリーガーとして、そして教育者として、今もなおサッカーに情熱を注ぎつづける箕輪 義信さんの言葉に耳を傾けてみたい。

大卒Jリーガーのキャリア

――まずは箕輪さんのキャリアについて振り返っていただきたいのですが。箕輪さんは確か大卒のJリーガーでしたよね。

(箕輪) はい。高校を卒業して、関東の大学に決まりかけていたのですが、仙台大学への進学を決めました。1年目から勝負したいという想いと、教員免許が取れるという点が大きな決め手でした。その時はまだプロへの道は全く考えていませんでした。

 

――大学時代にユニバーシアード代表に選出されました。

(箕輪)そんな頃がありましたね。(笑)イタリア大会に僕たちが行って、たしか7位か8位だったような。初めての世界の舞台でしたがとにかく楽しかったですね。

 

――プロ最初のキャリアがジュビロ磐田ということですが、当時のジュビロはまさに黄金期の真っ只中でしたよね。

(箕輪) 昔からのJリーグのファンの方なら記憶にずっと残っていると思いますが、鹿島磐田の2強時代、その時の磐田です。中山雅史さん、高原直泰、奥大介、名波浩さん、服部年宏さん、藤田俊哉さん、福西崇史、田中誠さん、鈴木秀人さん、井原正巳さん、前田浩二さんとか、もうほぼ日の丸状態。だから紅白戦はもう対日本代表のような状況でしたね。

 

――この豪華なメンバーの中にルーキーとして割って入ったというわけですね。

(箕輪) スカウトには1度断りましたけどね。

 

――どうしてですか?

(箕輪) 実力が違い過ぎますから。自分のことはあまり過大評価しないように生きてきたので。そうしたらスカウトの方に「今のお前なんか使えないよ。」というふうに普通に言ってくれて。「日本代表メンバーと一緒にサッカーをしていたら、お前のポテンシャルならいつか日本代表になれるよ。」と誘われましたが、いざ入ってみると、そのレベルの高さを目の当たりにしてカルチャーショックを受けましたね。

 

――その後、1年半後に移籍を決断した。

(箕輪) Jリーガーの引退は平均25、6歳が大半ですが、僕のような大卒の場合だとプロになった年齢が22歳ですから、この計算だと2、3年ほどしかプレーできないということになります。そうなると目に見える結果(数字)が必要ではないかと。1年でも長くプロとしてプレーするためにはどうしたらいいかと考えました。その答えが移籍という決断でした。

 

――そして川崎フロンターレへ。

(箕輪) そうですね。川崎を選んだ理由はまずは地元だということ。なぜJ2への降格が決まろうとしているクラブを選ぶのかと、周りには不思議がられましたが、賭けですね。どうせ終わるのであれば地元で終わりたいという気持ちがありました。

 

――この決断が後のサッカー人生に大きな影響を与えたわけですね。

(箕輪) 大きかったですね。J2でもいい、とにかく数多く試合に出たい。コツコツ経験を積んで、いつかJ1で磐田に勝って代表になりたい。そうなったら面白いなと思いました。

 

――そのシナリオ通りになるわけですね。では次に川崎時代のお話をお聞かせください。J1昇格まで4年間、道のりは長かったのではないでしょうか。

(箕輪) 長かったですね。本当にもうどうやったら上がれるのだろうかと。元々自分たちにそれほどの実力があったわけではなかったですから。監督も初年度はブラジル人と日本人の二党体制で、どっちの話を聞こうかなみたいな。当時、コンサドーレ札幌から移籍したもの凄い足が速い外国人選手、後に浦和で大ブレイクするエメルソンがきて、伊藤 宏樹が1年目、僕も1年目みたいなもので、紅白戦はBチームで一緒にやっていましたが、宏樹とは歳も近かったこともあり、絶対に二人でレギュラー取ろうとよく話をしていました。

 

――箕輪さんのプレースタイルについて話を移していきたいのですが、やはり屈強なフィジカルと空中戦に強いというイメージが一般的だと思いますが。

(箕輪) そういう印象で終われたというのは嬉しいですね。ストロングポイントを持つことはとても大事だと思います。上手さや速さは僕にはあまりなかったので、自分の特長を知る、そしてそこを磨きあげることは意識してやってきたことですね。

どの選手も巧いですから。その上に各々にカラーがあるから面白い。だから逆にフロンターレのサポーターの人たちは僕が足で持つとみんなが不安がる。大丈夫かアイツっていう。ちょっと抜いちゃったりするとどよめく。それも一つの面白さだと思います。逆に、クロスが僕のところに飛んできたら、「アレは勝てるでしょ」みたいになる。

 

――箕輪さんといえば、『川崎山脈』という代名詞が印象的ですよね。

(箕輪) 僕が幸せなのはやはり『山脈』という通称がついたことで、ずっと記憶してもらえているということ。攻撃の選手たちが、〇〇カルテットなどという愛称で親しまれやすいですけど、ディフェンス陣がそういう風に注目されることは本当に嬉しいことですよね。

 

――当時のエピソードはありますか。

(箕輪) 引退してから3人(伊藤 宏樹 寺田 周平)で会って話をしたことがありました。当時は「阿吽」だったねと。言葉が少なくても互いに感じ取れる。3バックは一人が見る範囲が大きく大変でしたが、あの2人はボクにとっては良いライバルでした。でかいけど上手い寺田周平がいて、スピードスターの伊藤宏樹がいる。そして僕には高さと強さがある、それぞれがお互いの能力で補い合うイメージだったねと。

 

――川崎フロンターレ時代の話を突き詰めていきたいのですが、一般的には、圧倒的な強さでJ2優勝を成し遂げた2004シーズンが印象的だと思いますが、ボクはむしろ直前で昇格を逃した2003シーズンの最終戦の印象が強く残っています。当時の様子をお聞かせください。

(箕輪) 石崎(信弘)監督の時代ですね。よくあの負けが(最終節 湘南2-2川崎 土壇場でJ1昇格逃す)があったからだと言われますが、当時は本当にギリギリのチーム状態でしたから。石崎さんの理想とするサッカーをみんなで叶えていこうと。他力本願でも昇格の可能性の中の試合でしたが、自分たちのやるべきことに集中した結果です。チームメイトには聞いていませんが自分はそうだった。だから次の年があったのだと思いますね。

 

――そして迎えた翌年、2004シーズンが集大成となった。

(箕輪) 2004シーズンはもう川崎フロンターレの年でしたね。今でもJ1から落ちてきたチームがJ2をぶっちぎっていくというパターンはありますが、あの頃の僕たちのような勝ち方は異例ではないでしょうか。この頃のフロンターレには、ボク以外にも中村憲剛もジュニーニョもアウグストもマルクスもいて、すごいメンバーが揃っていました。

 

――勝点105、104得点、まさにぶっちぎりの優勝でしたね。そして再びJ1での挑戦が始まった。

(箕輪) 2005年はもう僕らは楽しくて仕方がなくて。もう怖いものもないし、どこまでもやってやるぞって。結果は8位でしたが。

 

――そしてついに日本代表に選出された。

(箕輪) それは確か10月のことだと思いますが、その前に東アジアの大会があり、その時にも召集されましたが、突然、耳が聴こえなくなってしまいました。突発性難聴という病気でしたが、発症から2週間治療しないと一生そのままになってしまうと告げられ断念しました。この大会で、坪井慶介や茂庭照幸らがアピールして、そのまま代表に入っていった。自分もプレーできていればという悔しさが残りましたね。

 

――代表デビューは2005年10月12日、ウクライナとのアウェー戦でしたね。

(箕輪) その遠征は2試合あって、1試合目はさすがに使ってもらえず、それでも練習から楽しくやらせてもらいましたし、ジーコ監督やエドゥーコーチにもとても良くしていただきました。日本代表ではこの試合限り、しかも交代出場でしたが、日本のために何ができるだろうかと真剣に向き合う貴重な機会でした。僕はあまりサブという経験がなく、ずっと試合に出させてもらっているタイプでしたので、どう盛り上げていけばいいのか、どうサポートすればいいのか、すごく気を使いました。

そしていよいよ遠征2試合目のウクライナ戦に出場の機会が巡ってきました。実はディフェンダーの交代出場のほとんどはアクシデントによるものです。まったく緊張しませんでした。ワクワクでしたね。これまでトレーニングで対外国人用の体を作ってきましたから。なんとか踏ん張って終盤まで無失点に抑えてきましたが、最後の最後でPKを与えてしまいました。

疑惑のPKとも言われていますが、初代表でこれかというショックと申し訳ない気持ちでいっぱいでした。その時ジーコ監督がベンチから飛び出してきて「お前は悪くない、審判が悪いんだ。」と、かなり荒々しく僕を擁護してくれました。その言葉が本当に嬉しかったし、鹿島の選手がジーコさんを崇拝している想いが良く理解できました。だからこそドイツワールドカップでお役に立ちたかった。

 

――そうですよね。ワールドカップ目前の選出でしたしね。

(箕輪) あの時は、中澤(佑二)と闘莉王が選ばれていましたよね。国内でヘディングだけだったら、僕は誰にも負けない自信がありました。ましてや対戦相手が縦ポンのオーストラリアでしたし。縦ポンは僕の大好物でしたしね。(笑)そこは本当に悔いが残っています。

 

――その後、コンサドーレ札幌に移籍して現役を終えたわけですが、現役最後の試合(2008年9月20日のジェフ戦)で現役初のレッドカードをもらったというエピソードがありますね。

(箕輪) 最後のあのレッドカードは彼が上手かったですね。彼とは当時のジェフ(千葉)の深井正樹くんですが、僕の背中を走っていったのを気づけなくて。一度、首を振った時には大丈夫だったのに、ライン揃えていたところをポンっと蹴られた瞬間に深井くん走っていました。僕は全速力で追いかけましたが、ペナルティーエリアに差し掛かっていた時、急にクッとスピードを落としてきて、ぶつかってしまいました。

 

――それが最後の試合だったんですね。逆に言うとそれまでレッドカードが無かったってことですよね。

(箕輪) そうですね。もらわないのが一番良いのですが、1枚もらいにいく覚悟でタイトに戦っていました。でもちゃんと計算はしていましたよ。どこまでがOKなのか状況を見計らってね。

 

――現役生活を振り返ってみていかがですか。

(箕輪) 現役生活を振り返ったら幸せでしょう。国体も選ばれていないし、Jリーガーを目指していたわけでもない。いかに自分をアピールして、この職を長く続けていけるかという考え方でいくと、かなりあの世界では長くよく生きてこられたと思っています。

こうした想いを持ち続けてこられた理由は、当時フリューゲルス(横浜フリューゲルス:1999年に消滅)、に所属していた前田浩二さんとの出会いがきっかけでした。前田さんは僕にこんなことを言ってくれました。移籍する時は、飛ぶ鳥後を濁さず。退路は断て、覚悟を決めろ、そうしなければ移籍先に失礼になる。「箕輪は上手くない、天才はいっぱいいるぞ、でも天才は辞めていく、最後にずっと続けているやつが勝ち。だからとにかく続けろと。

現役生活を終え公立高校の教員へ

――次に箕輪さんの現在についてお伺いしていきたいのですが、指導者や関係者としてクラブに残るという選択ではなく、公立高校の教員のかたわらサッカー部の指導に当たっているそうですが、なぜこの道を選んだのでしょうか。現在お勤めの学校は、

(箕輪) 川崎市にある神奈川県立菅高等学校です。

 

――公立高校を選んだ理由をお聞かせください。

(箕輪) 一つは家が裕福ではなかったこと。親がすごく頑張ってくれて僕に教員免許を取らせてくれました。川崎から移籍する時に結構覚悟を迫られました。コーチとしてチームに残るのであれば、それと引き換えに色んなものを我慢しなければいけないと代理人にも言われていましたが、僕は元々教員になると決めていた人間ですので、それよりも沢山いろんな経験をしたいと、じゃあ移籍しなよということで北海道に行ったという経緯がありました。それに元サッカー関係者で私立学校に就く方は結構多いですが、試験を突破して、公務員としてサッカーの指導をしていくという、元々の目標に立ち返ることにしました。

目的としては、金銭的にも厳しいなどの理由で私立に行けない、それでももう一度夢に向かってチャレンジしたいという選手を受け入れたい。そういう新しいスタンスと門があってもいいのではないか、僕のような経歴を持つ先生が公立高校にいたら面白いのではないか、そう思いました。

 

――神奈川県は桐光学園や日大藤沢など、ほとんどの強豪校は私立ですよね。

(箕輪) 神奈川県は校数が多く、200校近くありますが、まずはその中から40チームに残ること、それまでの道のりを2次予選と言うのですが、そこまでいくのが公立高校の夢というのが現状です。公立高校としてはそこまで辿り着くことに一つの価値があるわけですが、ある学生がこう言っていました。「2次予選にいったからなんなんですか」と。そこに何の意味を持つのか。消化しきれていない学生を見るのがとても悔しくて。もしかしたらスポーツの価値が落ちているのかもしれないと、そう思います。

やはり誰でも辛いことは嫌だし、自分を見つめ直して新しいことをするのもちょっとしゃくだし、楽しいことは東京行けばいっぱいあるしバイトもできる。辛いのはちょっと割に合わない。ただいつも言っているのは“スポーツは人間力を高める”もの。勉強したければすればいい、でも社会に出て見られるのは知識力ではなく人間力ですから。なぜサッカーなのかというと組織スポーツだからです。中学校までは子供のサッカーでいいのかもしれませんが、高校では組織というものを意識してもらっています。

レベルの高いところでサッカーがしたい。いずれ自分もそこにいきたいと思いますが、公立高校にはセレクトする資格はありません。してはいけないのです。だから門がずっと開きっぱなしで、どんな子が入ってくるのかわかりません。気概はある、でも現実は厳しかった。そういう生徒を辞めさせないで、どうやってサッカーを通じて世に出していくのか。

昨年、大量に部員が辞めました。実は先ほど難しいと言った2次予選を突破したのですが、これから先、もっと厳しくなるのではないかと言う理由で残ったのは3年生が5人、最終的な部員数は11人となりました。辞めた子たちはどこかで楽しくサッカーをしているそうですが、ついてきてくれた子たちは辛かっただろうけど、こんなに人が変わるかというくらいに成長しました。

 

――どうしてこのような事態になったのでしょうか。

(箕輪) それは僕が厳しいからでしょう。でもそんな場所があってもいいと思います。選択は自由ですから。やりたくなければそれでもいい、求められるなら100%。「もうオレそこまではいいっす」これが現代ですよね。それでも向かってくる子はいる。

僕がやりたいことは高校生までに原理原則を徹底的に教えること。今回のワールドカップがおもしろかったのは戦術と戦い方。何と何で何を計算したらあそこまで行き着くのか。どうしたら日本のサッカーが強くなるのか。彼らにはそういう説明もするし、その上で今何ができるのかを考えるわけです。

逆転を起こしたいんです。でも決して高校サッカーで逆転を起こしたいわけではありません。一番輝いてほしい場所は大学です。大学でサッカーをやってほしい。上級カテゴリーに入って、長く、楽しく、自分の意思でサッカーをしてほしい。それを今頑張って伝えています。

フェイスブックじゃないけど、いいね、いいね、すごくいいね、という風に育てられた子たちが今ここにいますが、彼らは本当にそれでいいのか考えられません。一つは大人の責任です。しっかりとジャッジすること、白黒つけて、良いと悪いを明確にしていない。もう一つはこれほどメディアが発達しているのに、それらを鵜呑みにして、何の疑問を持たないのは君のせい。良い気持ちになびかずに、本質を見ることが大切だと思います。やはりそこを知っていて社会に出るのと、知らずに社会に出るのとではその後が大きく変わってきます。

 

――それは箕輪さんご自身の経験からきているのでしょうね。

(箕輪) 高校時代の3年間は基礎ばかりのトレーニングで本当につまらなかった。ところが大学に入ってから、習志野や前育(前橋育英)といった名門高校出身の選手に混じってプレーしても遜色なかった。そういった経験とこれまで培ってきた知識をしっかりと伝えたいし、一人の大人として責任を伝える、グラウンドの中で○と×はしっかりつける。それには自信があります。

サッカーの特性上、個人の判断に任せるべきという考え方もありますが、以前、ある格闘家の人に『守破離』という言葉を教わりました。まずは師の教えを守り、型を覚えること。その型を覚えた上でプラスαつけて創作する。最終的に型を破り、自らが創造して師を超えていくこと。これを高校の3年でやっていきたい。

一昔前はユースに上がれなかった選手は負け組だと言われていましたが、今はジュニアユースに入れなかった選手でも負け組と呼ばれるそうです。どんどん若年化している、見切るのが早過ぎるんです。だからもう高校に入る前から選手自身が見切ってしまっていて、楽しい方がいいじゃん、別に上を目指しているわけじゃないし、みたいな感じになってしまう。

ユースに上がる組と高校組という様相になってしまっていますが、ユース組は決して勝ちではなく、ユースの選手も当然、誰もがトップ昇格できるわけではありません。ユースの選手の大半は大学に進学します。高校の選手も大学に進学する。実はもう一回ここでユースの選手と勝負するわけです。

 

――最後に読者に向けてメッセージをお願いします。

(箕輪) サッカーには、人をまとめたり、そこに向かって議論し合ったり、人を動かす力があると思っています。僕はサッカーの可能性をすごく感じています。自分がそうであったように、高校時代まで何も選ばれてない選手でも、必ず可能性があります。だから早い段階で諦めないでほしい。僕はそういう選手を救うために公立高校の監督になったわけで、何かあったら相談しに来て欲しいですね。

箕輪 義信(みのわ よしのぶ)

1976年6月2日生まれ

神奈川県川崎市出身

現役時代のポジション:DF

 経歴:1999-2000(ジュビロ磐田)→2000-2008(川崎フロンターレ)→2008-2010(コンサドーレ札幌)現役引退後、神奈川県立菅高等学校の教師のかたわらサッカー部監督を勤める。

★対談の模様はダイジェスト動画をご覧ください。

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