サッカー馬鹿

2018.10.24

日本代表から高校教師へ。サッカーの可能性に情熱を捧げる。そのために公立高校の監督になった。〈元日本代表/元川崎フロンターレDF 箕輪 義信氏インタビュー〉

――箕輪さんのプレースタイルについて話を移していきたいのですが、やはり屈強なフィジカルと空中戦に強いというイメージが一般的だと思いますが。

(箕輪) そういう印象で終われたというのは嬉しいですね。ストロングポイントを持つことはとても大事だと思います。上手さや速さは僕にはあまりなかったので、自分の特長を知る、そしてそこを磨きあげることは意識してやってきたことですね。

どの選手も巧いですから。その上に各々にカラーがあるから面白い。だから逆にフロンターレのサポーターの人たちは僕が足で持つとみんなが不安がる。大丈夫かアイツっていう。ちょっと抜いちゃったりするとどよめく。それも一つの面白さだと思います。逆に、クロスが僕のところに飛んできたら、「アレは勝てるでしょ」みたいになる。

 

――箕輪さんといえば、『川崎山脈』という代名詞が印象的ですよね。

(箕輪) 僕が幸せなのはやはり『山脈』という通称がついたことで、ずっと記憶してもらえているということ。攻撃の選手たちが、〇〇カルテットなどという愛称で親しまれやすいですけど、ディフェンス陣がそういう風に注目されることは本当に嬉しいことですよね。

 

――当時のエピソードはありますか。

(箕輪) 引退してから3人(伊藤 宏樹 寺田 周平)で会って話をしたことがありました。当時は「阿吽」だったねと。言葉が少なくても互いに感じ取れる。3バックは一人が見る範囲が大きく大変でしたが、あの2人はボクにとっては良いライバルでした。でかいけど上手い寺田周平がいて、スピードスターの伊藤宏樹がいる。そして僕には高さと強さがある、それぞれがお互いの能力で補い合うイメージだったねと。

 

――川崎フロンターレ時代の話を突き詰めていきたいのですが、一般的には、圧倒的な強さでJ2優勝を成し遂げた2004シーズンが印象的だと思いますが、ボクはむしろ直前で昇格を逃した2003シーズンの最終戦の印象が強く残っています。当時の様子をお聞かせください。

(箕輪) 石崎(信弘)監督の時代ですね。よくあの負けが(最終節 湘南2-2川崎 土壇場でJ1昇格逃す)があったからだと言われますが、当時は本当にギリギリのチーム状態でしたから。石崎さんの理想とするサッカーをみんなで叶えていこうと。他力本願でも昇格の可能性の中の試合でしたが、自分たちのやるべきことに集中した結果です。チームメイトには聞いていませんが自分はそうだった。だから次の年があったのだと思いますね。

 

――そして迎えた翌年、2004シーズンが集大成となった。

(箕輪) 2004シーズンはもう川崎フロンターレの年でしたね。今でもJ1から落ちてきたチームがJ2をぶっちぎっていくというパターンはありますが、あの頃の僕たちのような勝ち方は異例ではないでしょうか。この頃のフロンターレには、ボク以外にも中村憲剛もジュニーニョもアウグストもマルクスもいて、すごいメンバーが揃っていました。

 

――勝点105、104得点、まさにぶっちぎりの優勝でしたね。そして再びJ1での挑戦が始まった。

(箕輪) 2005年はもう僕らは楽しくて仕方がなくて。もう怖いものもないし、どこまでもやってやるぞって。結果は8位でしたが。

 

――そしてついに日本代表に選出された。

(箕輪) それは確か10月のことだと思いますが、その前に東アジアの大会があり、その時にも召集されましたが、突然、耳が聴こえなくなってしまいました。突発性難聴という病気でしたが、発症から2週間治療しないと一生そのままになってしまうと告げられ断念しました。この大会で、坪井慶介や茂庭照幸らがアピールして、そのまま代表に入っていった。自分もプレーできていればという悔しさが残りましたね。

 

――代表デビューは2005年10月12日、ウクライナとのアウェー戦でしたね。

(箕輪) その遠征は2試合あって、1試合目はさすがに使ってもらえず、それでも練習から楽しくやらせてもらいましたし、ジーコ監督やエドゥーコーチにもとても良くしていただきました。日本代表ではこの試合限り、しかも交代出場でしたが、日本のために何ができるだろうかと真剣に向き合う貴重な機会でした。僕はあまりサブという経験がなく、ずっと試合に出させてもらっているタイプでしたので、どう盛り上げていけばいいのか、どうサポートすればいいのか、すごく気を使いました。

そしていよいよ遠征2試合目のウクライナ戦に出場の機会が巡ってきました。実はディフェンダーの交代出場のほとんどはアクシデントによるものです。まったく緊張しませんでした。ワクワクでしたね。これまでトレーニングで対外国人用の体を作ってきましたから。なんとか踏ん張って終盤まで無失点に抑えてきましたが、最後の最後でPKを与えてしまいました。

疑惑のPKとも言われていますが、初代表でこれかというショックと申し訳ない気持ちでいっぱいでした。その時ジーコ監督がベンチから飛び出してきて「お前は悪くない、審判が悪いんだ。」と、かなり荒々しく僕を擁護してくれました。その言葉が本当に嬉しかったし、鹿島の選手がジーコさんを崇拝している想いが良く理解できました。だからこそドイツワールドカップでお役に立ちたかった。

 

――そうですよね。ワールドカップ目前の選出でしたしね。

(箕輪) あの時は、中澤(佑二)と闘莉王が選ばれていましたよね。国内でヘディングだけだったら、僕は誰にも負けない自信がありました。ましてや対戦相手が縦ポンのオーストラリアでしたし。縦ポンは僕の大好物でしたしね。(笑)そこは本当に悔いが残っています。

 

――その後、コンサドーレ札幌に移籍して現役を終えたわけですが、現役最後の試合(2008年9月20日のジェフ戦)で現役初のレッドカードをもらったというエピソードがありますね。

(箕輪) 最後のあのレッドカードは彼が上手かったですね。彼とは当時のジェフ(千葉)の深井正樹くんですが、僕の背中を走っていったのを気づけなくて。一度、首を振った時には大丈夫だったのに、ライン揃えていたところをポンっと蹴られた瞬間に深井くん走っていました。僕は全速力で追いかけましたが、ペナルティーエリアに差し掛かっていた時、急にクッとスピードを落としてきて、ぶつかってしまいました。

 

――それが最後の試合だったんですね。逆に言うとそれまでレッドカードが無かったってことですよね。

(箕輪) そうですね。もらわないのが一番良いのですが、1枚もらいにいく覚悟でタイトに戦っていました。でもちゃんと計算はしていましたよ。どこまでがOKなのか状況を見計らってね。

 

――現役生活を振り返ってみていかがですか。

(箕輪) 現役生活を振り返ったら幸せでしょう。国体も選ばれていないし、Jリーガーを目指していたわけでもない。いかに自分をアピールして、この職を長く続けていけるかという考え方でいくと、かなりあの世界では長くよく生きてこられたと思っています。

こうした想いを持ち続けてこられた理由は、当時フリューゲルス(横浜フリューゲルス:1999年に消滅)、に所属していた前田浩二さんとの出会いがきっかけでした。前田さんは僕にこんなことを言ってくれました。移籍する時は、飛ぶ鳥後を濁さず。退路は断て、覚悟を決めろ、そうしなければ移籍先に失礼になる。「箕輪は上手くない、天才はいっぱいいるぞ、でも天才は辞めていく、最後にずっと続けているやつが勝ち。だからとにかく続けろと。

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