大卒Jリーガーのキャリア
――まずは箕輪さんのキャリアについて振り返っていただきたいのですが。箕輪さんは確か大卒のJリーガーでしたよね。
(箕輪) はい。高校を卒業して、関東の大学に決まりかけていたのですが、仙台大学への進学を決めました。1年目から勝負したいという想いと、教員免許が取れるという点が大きな決め手でした。その時はまだプロへの道は全く考えていませんでした。
――大学時代にユニバーシアード代表に選出されました。
(箕輪)そんな頃がありましたね。(笑)イタリア大会に僕たちが行って、たしか7位か8位だったような。初めての世界の舞台でしたがとにかく楽しかったですね。
――プロ最初のキャリアがジュビロ磐田ということですが、当時のジュビロはまさに黄金期の真っ只中でしたよね。
(箕輪) 昔からのJリーグのファンの方なら記憶にずっと残っていると思いますが、鹿島磐田の2強時代、その時の磐田です。中山雅史さん、高原直泰、奥大介、名波浩さん、服部年宏さん、藤田俊哉さん、福西崇史、田中誠さん、鈴木秀人さん、井原正巳さん、前田浩二さんとか、もうほぼ日の丸状態。だから紅白戦はもう対日本代表のような状況でしたね。
――この豪華なメンバーの中にルーキーとして割って入ったというわけですね。
(箕輪) スカウトには1度断りましたけどね。
――どうしてですか?
(箕輪) 実力が違い過ぎますから。自分のことはあまり過大評価しないように生きてきたので。そうしたらスカウトの方に「今のお前なんか使えないよ。」というふうに普通に言ってくれて。「日本代表メンバーと一緒にサッカーをしていたら、お前のポテンシャルならいつか日本代表になれるよ。」と誘われましたが、いざ入ってみると、そのレベルの高さを目の当たりにしてカルチャーショックを受けましたね。
――その後、1年半後に移籍を決断した。
(箕輪) Jリーガーの引退は平均25、6歳が大半ですが、僕のような大卒の場合だとプロになった年齢が22歳ですから、この計算だと2、3年ほどしかプレーできないということになります。そうなると目に見える結果(数字)が必要ではないかと。1年でも長くプロとしてプレーするためにはどうしたらいいかと考えました。その答えが移籍という決断でした。
――そして川崎フロンターレへ。
(箕輪) そうですね。川崎を選んだ理由はまずは地元だということ。なぜJ2への降格が決まろうとしているクラブを選ぶのかと、周りには不思議がられましたが、賭けですね。どうせ終わるのであれば地元で終わりたいという気持ちがありました。
――この決断が後のサッカー人生に大きな影響を与えたわけですね。
(箕輪) 大きかったですね。J2でもいい、とにかく数多く試合に出たい。コツコツ経験を積んで、いつかJ1で磐田に勝って代表になりたい。そうなったら面白いなと思いました。
――そのシナリオ通りになるわけですね。では次に川崎時代のお話をお聞かせください。J1昇格まで4年間、道のりは長かったのではないでしょうか。
(箕輪) 長かったですね。本当にもうどうやったら上がれるのだろうかと。元々自分たちにそれほどの実力があったわけではなかったですから。監督も初年度はブラジル人と日本人の二党体制で、どっちの話を聞こうかなみたいな。当時、コンサドーレ札幌から移籍したもの凄い足が速い外国人選手、後に浦和で大ブレイクするエメルソンがきて、伊藤 宏樹が1年目、僕も1年目みたいなもので、紅白戦はBチームで一緒にやっていましたが、宏樹とは歳も近かったこともあり、絶対に二人でレギュラー取ろうとよく話をしていました。
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